劇場からの失踪

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『ベルファスト』子供時代を子供らしくいられたことへの感謝 劇場映画批評第55回

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題名:『ベルファスト/Belfast』
製作国:イギリス

監督:ケネス・ブラナー監督

脚本:ケネス・ブラナー

音楽:Van Morrison

撮影:Haris Zambarloukos

美術:Jim Clay
公開年:2022年

 

 

目次

 

あらすじ

俳優・監督・舞台演出家として世界的に活躍するケネス・ブラナーが、自身の幼少期の体験を投影して描いた自伝的作品。ブラナーの出身地である北アイルランドのベルファストを舞台に、激動の時代に翻弄されるベルファストの様子や、困難の中で大人になっていく少年の成長などを、力強いモノクロの映像でつづった。ベルファストで生まれ育った9歳の少年バディは、家族と友達に囲まれ、映画や音楽を楽しみ、充実した毎日を過ごしていた。笑顔と愛に包まれた日常はバディにとって完璧な世界だった。しかし、1969年8月15日、プロテスタントの武装集団がカトリック住民への攻撃を始め、穏やかだったバディの世界は突如として悪夢へと変わってしまう。住民すべてが顔なじみで、ひとつの家族のようだったベルファストは、この日を境に分断され、暴力と隣り合わせの日々の中で、バディと家族たちも故郷を離れるか否かの決断を迫られる。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

今回紹介するのはシェクスピア俳優や、『マイティ・ソー』等の監督としても知られているケネス・ブラナー監督の最新作『ベルファスト』だ。北アイルランド、ベルファストで実際に起こったカトリックvsプロテスタントの抗争に巻き込まれた少年を、オートフィクション(自伝的フィクション)として描いていく。「子供から見えている世界」を徹底的に演出した本作の意図、そして現代のベルファストから何故始めたのかについて考えていく。

では早速語っていこう。

 

少年の視座、西部劇としてのベルファスト

まず改めてこの物語の背景について整理しておきたい。物語の舞台は1969年8月のベルファスト。ベルファストは北アイルランドに位置する地域で、そこではイギリスによるアイルランドの直接統治によってプロテスタント(カトリックに抗議するもの)達が土着のカトリックから土地を奪っていくという構造が生まれていた。それは本作で描かれた1969年に激化し、1998年に和平成立に至るまでに3600人の死者を出した、後に「北アイルランド紛争」と呼ばれる紛争へと発展していった。(パンフレット参照)

この背景を踏まえると、本作が"現代"から始まるのも頷けるはずだ。予告編だと一切観られないカラーの都市群の映像や、カラーからモノクロへとシームレスに場面転換していくシーンは、本作がベルファストという「街」の回想録だと言わんばかりだ。今の平和なベルファストを冒頭に描くことは、"モノクロのベルファスト"を"回想"だと喚起し、「北アイルランド紛争」のbefore、with、afterを全て描くためにも必要だったのだ。

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そんなベルファストという土地で、暴力的な時代の流れに巻き込まれていく主人公は、ジュード・ヒルが演じるバディという「少年」だ。ここで「少年」だと強調するのは、ベルファストの地で派閥に属して対立する大人や日常が破壊されていくことに自覚的な大人ではなく「少年」であるというのが本作の重要な点だと考えるからだ。

宗教対立のことも、窃盗が犯罪だということも、人が死ぬことが何なのかも分からない、そんなことよりも、好きな女の子の隣の席になることが重要な「少年」を主人公とすることは、全編に「少年の視座」というある種のフィルターがかけることになる。近年の作品だと『ジョジョラビット』辺りが「少年と戦」という構図として近いものがあるだろう。(劇場映画批評第11回参照) 監督も本作を「すべてが9歳の少年の想像力を出発点に描かれている」と語っており、フォーカスが合うのは、主人公の生きる"日常"であり、フォーカスのずれたカトリックvsプロテスタントという宗教紛争は少年の背景へと追いやられて、非現実的なイノセントな少年の世界を描くための断片になる。

 

それが顕著に表現されるのは、クライマックスともいえるパ(ジェイミー・ドーナン)とビリー(コリー・モーガン)のまさに"一騎打ち"の場面だろう。破壊活動が激化し、銃も登場し、一瞬後には命が奪われているような状況。しかしその場面は、どこか西部劇を思わせるようなカメラワーク(それぞれの手元を背面からのアップ)と音楽が流れる。思えば、本作で常に印象的に描かれる一本道の大通りは、西部劇におけるバーの目の前の大通り、つまり西部劇特有の決闘が行われる場所のようではないか。これらの西部劇との符合についてもケネス・ブラナー監督は「本作はある種の西部劇として撮った」と語っている。これは、監督自身が幼少期にテレビでハリウッドの西部劇を観ていた幼少期を過ごしていたからというのが大きいだろう。本作にはバディがテレビで『真昼の決闘』や『リバティ・バランスを射った男』といったモノクロの西部劇を被りつくように見るシーンが時折登場するが、それらが指し示すのは現実に起こっている出来事が、バディにとってテレビの向こうの出来事のように、非現実的なもので、刺激的なフィクション性を帯びていたということだ。特に『真昼の決闘』を観ていたバディが、赤狩りへのアンチテーゼとしての異質なメッセージ性に気づかず、単に西部劇として楽しんでいた様子は、まさにバディが目の前で起きていることを子供であるがゆえに分かっていない、という本作ならではの「少年の視座」が見えてくる。

 

また西部劇という視点は、本作におけるバディ一家のベルファストを離れるという物語にも重なる。父親のパはイギリスに出稼ぎをしており、たまにしかベルファストに帰ってこない。ベルファストという土地を愛しながらも、外の世界を知り、この土地に長く居つくことができないことも分かっている。その姿は『シェーン』に代表するような西部開拓時代末期のアウトローの姿のように哀愁が漂う。そして土地を捨て、新天地に向かうという行為それ自体が、西部劇的なニュアンスを持つ。いや、「かつての時代を描く」行為そのものがもう西部劇的なのかもしれない。

 

子供時代を子供らしくいられたことへの感謝

話を「少年の視座」についてへ戻そう。ケネス・ブラナー監督が何故「少年の視座」にこだわって描いたのか、そこに多くのことが予想できるが、一番に「子供時代を子供らしくいられたことへの感謝」を示すためだと感じた。

紛争や戦争が起こっている状況で子供が子供で居ることは難しい。それはタルコフスキーの『僕の村は戦場だった』やマルホウの『異端の鳥』を観れば分かるだろう。二項対立が極端化していく環境において、どちらにも属さずにいること、特に両親が紛争に意欲的に参加していたのなら子供が抗う術はない。本作においてもその可能性は十分あった。パがビリーの誘いに乗って、プロテスタント側として紛争に参加していたのなら、バディもまた憎しみの連鎖に巻き込まれていたのかもしれない。

 

バディが紛争の中で二項対立に巻き込まれずにいられたのは、一重に周りに良き大人(両親や祖父母)がいたからだ。バディは破壊活動で街が荒れ果てる中で、モイラ(ララ・マクドネル)に唆されてが洗剤を盗んでしまう。紛争状態において、法治機構や人の道徳心は機能しなくなってしまうことはある。最近だとBLMのデモに破壊活動(店に押し入り、ものを盗んだり壊したりすること)を目的とした者が混ざりこんでいたという事件を耳にしたが、まさにそういった"火事場泥棒"のようなことが出来る状況になってしまっていた。しかしバディの母親はそんな状況においても、盗んだ洗剤を返しにいく。「盗みはよくないこと」だとバディを叱るのだ。私はその凡庸な道徳心が何よりも眩しく感じた。

また「お前の言うことが理解できないなら、それは彼らがお前の言うことを聴いていないだけ」や「振り返らずに行きなさい」といったバディを想った良識ある大人たちの言葉の数々、そして両親が意見の食い違いはありながらも互いに家族を想っている姿や、今も変わらず愛し合っている祖父母の姿、それら全てが「良き大人」としてバディを眼前の争いから遠ざけ、道徳的な正しさを常に体現して提示し続けたのだ。これらの「良き大人」の姿が何よりも本作を物語に温もりをもたらしている。そしてだからこそ、この映画が「少年の視座」で描かれたのは、ケネス・ブラナーの幼少期のオートフィクションだから、というよりも少年の視点で大人を描くことで、その温もりを以って「子供時代を子供らしくいられたことへの感謝」となると考えたのではないだろうか。 

本作は、

FORTHE ONES WHO STAYED.(ベルファストに残った人の為に)、

FORTHE ONES WHO LEFT.(ベルファストを去った人の為に)、

AND FOR ALL THE ONES WHO WERE LOST(そして失った全ての人の為に)

と締めくくられる。

1969年のベルファストを生きた全ての人、全ての選択、全ての喪失に対する敬意、そして今の自分を形作り、"選択"をした人々への感謝がここにはあった。