劇場からの失踪

映画をこよなく愛するArch(Ludovika)による映画批評 Twitterもあるよ @Arch_Stanton23

MENU

「クリント・イーストウッドの歴史」監督特集 ー『クライ・マッチョ』で到達した境地についてー 劇場批評47回

f:id:Arch_movie:20220317215954p:plain



題名:『クライ・マッチョ』
製作国:アメリカ
監督: クリント・イーストウッド監督
公開年:2022年製作年:2021年

あらすじ

誘拐から始まった少年との出会いが、二人の人生を大きく変えてゆく――
アメリカ、テキサス。
ロデオ界のスターだったマイクは落馬事故以来、数々の試練を乗り越えながら、孤独な独り暮らしをおくっていた。
そんなある日、元雇い主から、別れた妻に引き取られている十代の息子ラフォをメキシコから連れ戻してくれと依頼される。
犯罪スレスレの誘拐の仕事。それでも、元雇い主に恩義があるマイクは引き受けた。
男遊びに夢中な母に愛想をつかし、闘鶏用のニワトリとストリートで生きていたラフォはマイクとともに米国境への旅を始める。
そんな彼らに迫るメキシコ警察や、ラフォの母が放った追手。先に進むべきか、留まるべきか?
今、マイクは少年とともに、人生の岐路に立たされる―― 。

引用元:

wwws.warnerbros.co.jp

 

今回紹介する作品はクリントイーストウッド監督が40年間温め、満を持して映画化した『クライ・マッチョ』である。

クリントイーストウッド監督人生50周年であり、監督作品40本目でもある本作、気合を入れねばなるまい!と思い、今回はクリントイーストウッド監督作40本は勿論のこと、主演作品も含めて全64作品を鑑賞した上で『クライ・マッチョ』を鑑賞した。

なので今回はいつもの劇場映画時評としてだけではなく、「グザヴィエ・ドランの世界」監督特集 -集大成としての『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』-以来、ご無沙汰だった「監督特集」として、イーストウッドの過去作を網羅的に寄り道しつつ語っていくつもりだ。流石に全作品は触れられないだろうが、折角長い時間を掛けて全作観たのだから、サラッとでも触れていきたい。その際,「グザヴィエ・ドラン」監督特集のように全作品に触れる訳にはいかないので、三つのテーマを柱にしてクリントイーストウッドについて語っていくことになる。

三つのテーマ「老い」「車」「英雄」、これらのテーマはクリントイーストウッドのフィルモグラフィーにおいて一貫した要素として作品群を支え、当然その三柱の終点には現在のクリントイーストウッド監督の最新作である『クライ・マッチョ』がある。そう表現すると、なんだか集大成のようだが、そのことに関しては些か疑問である。なのでこれまで何度も繰り返し使われてきた「クリントイーストウッド監督の集大成」という陳腐化した表現についても改めて再考したい。

では早速、語っていこう。

※ここからはネタバレあり

 

(一応宣伝に貼っておく↓)

www.arch-movie.com

 

前提

まずクリントイーストウッドという男のフィルモグラフィーを語る上で、押さえとくべき要素として2つ挙げておきたい。これらの内容を共有した状態で読まないと呑み込みづらい話も出てくるだろうから是非読んで欲しい。またこの先多分なネタバレがあるので注意してほしい。

 

イーストウッドの監督作と主演作について

まずクリント・イーストウッドのフィルモグラフィーを語る上で、彼が監督と主演を兼任しているだけでなく、常にプロデューサーとして映画の製作に携わっていることは常に頭に入れていなければならない。彼はドル箱三部作で成功したのち、『荒鷲の要塞』などの大型のスター映画に参加していく中で、クリエイティブ面のコントロールを自身でしたいと考えた。そこで彼は『奴らを高く吊るせ』の製作の際に、自身の映画製作会社として「マルパソ・プロダクション」を設立した。それ以降のクリント・イーストウッド監督作or主演作品の製作はこの「マルパソ・プロダクション」が関わっている。(『ブロンコ・ビリー』『ピアノ・ブルース』は除く)つまり『奴らを高く吊るせ!』以降の作品クリント・イーストウッドの関わる作品は全て、クリント・イーストウッドのもとに届いた脚本、あるいは彼が見つけてきた脚本の中から彼が、そのとき作るべきだと判断した脚本が映画になっているということ。そしてその脚本に対して自身が監督するか、誰か別の監督(ドン・シーゲルなど)するかを自ら決定し、また自身が主演をするかしないかまで、彼自身で選択しているということだ。

彼は「映画が成功するのは脚本5割、キャスティング4割、残り1割は失敗してもいい」とインタビューで答えていたことがあるが、彼が自身の映画製作に対してコントロールしている領域がどこまでなのかがここに窺えるだろう。因みにこの言葉で残り1割の意味することはイーストウッドが大事にするアドリブやリハーサルをせずに試行回数を極端に下手した撮影がもたらす「即興性」の部分を意味していることは留意しておいて欲しい。(ここにおける「即興性」は彼の愛するジャズの持つ「即興性」から来ている)

ともかく、本記事では以上の理由でクリント・イーストウッドが監督していない作品も主演で参加している限り(つまりマルパソが製作に入っている限り)、彼のフィルモグラフィーを語る上で同等に扱っていく

 

クリントイーストウッドはミソジニーではない

2つ目はクリント・イーストウッドに付きまとう「男性主義」的なイメージについてである。ここで「男性主義」が指すのはいわば、前時代的(野性的かつ暴力的)な男性像を理想として、女性は男性未満の地位(能力)として扱う考え方のことで、ここでは敢えて"マッチョ"と言い換えてもいいだろう。

彼にそのイメージが定着した要因として、彼を一躍有名にした出世作が「西部劇」であったことは大きいだろう。

クリント・イーストウッドが世間に大きく認知されたのは連続ドラマ『ローハイド』からである。『ローハイド』はキャトルドライブを描いた典型的な西部劇であり、日本においても非常に人気を博した作品であったらしい。そんな『ローハイド』に出ていたクリントイーストウッドを当時まだ無名だったセルジオ・レオーネ含めた製作陣は大いに評価し、『用心棒』を原案としたマカロニウエスタン『荒野の用心棒』の主演に抜擢した。このセルジオ・レオーネとの邂逅こそ、クリントイーストウッド伝説の始まりであり、その後に続く『夕陽のガンマン』『続夕陽のガンマン』等のドル箱三部作という傑作を誕生させただけにとどまらず、「クリント・イーストウッドという名監督」を誕生させた"彼の半身ともいうべき人"との邂逅であったといえる。(もう半身はいうまでもなくドン・シーゲル)

ただ、同時にこの出会いがクリントイーストウッドに「男性主義」的なイメージを植え付けることにもなったのだ。そもそもとして60年代以前の西部劇こそ、非常に「男性」的なものであったことは分かって頂けるはずだ。その上でセルジオ・レオーネは当時下火になっていた西部劇を更にバイオレンスかつスタイリッシュに再構築することで、異例の西部劇(マカロニウエスタン)としてドル箱三部作を誕生させた。イタリアなどではその三部作は好評だったものの、海を飛び越えたアメリカでは「暴力的で野蛮、冷徹」として批評家は酷評され、そして観客は逆に、その暴力性に惹かれ、センセーショナルな作品として好評を博することとなった。そういった評価が彼の「男性主義」的なイメージは彼の演じた西部劇のキャラクターに由来するところが大きいのだ。ただ、クリントイーストウッド自身のマッチョな外見や、3回の結婚と8人の子供という驚きの女性遍歴など、そういった演じたキャラクター以外の私生活やそもそもの価値観といった要因が関係していることも否めないのは事実だ。

しかし、これだけは強く伝えたい。彼は決してミソジニー的な考え方を持った人間ではないことだ。それは多くの文献やドキュメンタリーを通じて、彼に関係する当事者の言葉を通じてはっきり分かることであり、『クリントイーストウッド シネマレガシー』や『クリントイーストウッド アウトオブシャドー』といったドキュメンタリーからも分かる。勿論、彼に会ったことなどなく、結局は画面や紙面越しの想像に過ぎないことは認めるが、であればクリントイーストウッドの演じるキャラクターから、彼をミソジニーだと断じることも間違っているだろう。

ここで重要なのはクリント・イーストウッド本人と彼の演じるキャラクターの性質は、分けて考えなければならないということだ。確かに彼が演ずるキャラクターには女性軽視の傾向がみられるのは事実だ。例えば『ダーティーハリー2』(テッド・ポスト監督)でアジア圏に対する偏見に基づき、急に誘惑してセックスを求めるアジア女性を抱いたハリーには確かに女性を下に見る素振りがあった。また『ダーティーハリー3』(ジェームズ・ファーゴ監督)だと、相棒の女性刑事に対する態度は女性は能力が劣っているという価値観に基づくもので、そして物語的にも彼女を"ハリーに恋する女性"として記号的に扱う。他にも『マンハッタン無宿』(ドン・シーゲル監督)では女性を口説くことで、主人公の「男性性」を強調するようだったりなど、彼の演じてきたモテ男や粗野で横暴な男性主人公像を強化するために、彼の周りにいる女性は意図的に記号的に配置され、それに対する彼の演じるキャラの「やれやれ」的なリアクションには女性軽視の傾向は確かに散見されるのだ。

しかし、そういったイメージはただ、クリントイーストウッドが演じてきたキャラクターに内包されるものに過ぎず、彼自身とは区別すべきなのだ。また彼がそのイメージに自覚的で、尚且つ自身とはかけ離れたものだと理解して主張していることは、ミソジニーや女性軽視のパブリックイメージと戦い、相対化し、ときに利用してきたフィルモグラフィーが証明している。

それは彼の初監督作品『恐怖のメロディー』(1971年)を観るだけでも充分だろう。

f:id:Arch_movie:20220315053519j:plain

『恐怖のメロディー』はクリント・イーストウッド演じるラジオDJであるデイヴが主人公の物語であり、これまで演じてきた西部劇のアウトローや刑事とは一線を画したキャラクターではあるが、実社会により身近な「男性」的なキャラクターとして描かれている。そんなキャラクター性は彼がバーに赴き、一夜限りの関係を求めて一人で飲んでいた女性イブリンをナンパする行動から読み取ることができる。しかし本作におけるナンパ行為は、『マンハッタン無宿』等で描かれた女性を口説く"男らしい"男性像の記号的な描写にはなっていない。ここでのナンパは、実は全て偏執的なファンであるイブリンの策略であり、ラジオDJデイヴを篭絡するためのトラップであったのだ。つまりナンパという極めて"男らしさ"を象徴している行為がデイヴに起こる一連のスリラー展開の発端として機能するのだ。男性が女性にまつわる状況や関係性に対して、如何に浅慮で盲目的かをさらけ出し、そして"男らしさ"から来る有害さのカウンターとして、悲劇を被る男の受難を描き出すことこそ本作の興味深いところなのだ。このことからデイヴの"男らしさ"が本作においては幼稚に男性性を称えるためのキャラクターではなく、相対化するために存在していることがこのことから分かるだろう。(そういった部分に留まらず、ヒッチコックの『サイコ』的なカットなどサスペンススリラーとして非常に秀逸な作品なのでおすすめ)

 

他にももう一本上げる。こちらはクリントイーストウッド監督作ではないがリチャード・タッグル監督の『タイトロープ』(1984)も非常にクリントイーストウッドのイメージを相対化した作品になっている。

f:id:Arch_movie:20220315021255j:plain

クリントイーストウッド演じる主人公であるブロックは、連続娼婦殺人事件を追うニューオリンズの刑事で毎晩、聞き込みの為に娼婦を渡り歩き、同時に異常なプレイで関係を持っていく。しかし奇妙なことに、彼が関係を持った女性が連続娼婦殺人事件と同様の「赤いリボンでの首を絞める」という方法で殺されていく。驚くことにその光景は彼の"異常なプレイ"を連想させるものであったのだ、というあらすじ。

サスペンススリラー的展開でパラノイアに陥っていく主人公が犯人を追いかけるストーリーが非常に面白い作品なのだが、何よりも興味深いのは彼が何故パラノイアに陥っていくか、という部分にある。本作におけるパラノイア、つまり精神的に追い詰められて信じる寄る辺を失う感覚は、極めて内的な要因であり「自分が犯人なのではないか」という倒錯に由来する。ブロックは女性を拘束して首を絞めるなど、極めて暴力的な行為に性的興奮を覚える男で、犯人もまた同様の趣向で持ち、その趣向のままに娼婦を殺していくような男で、確かに共通点を見出すことは出来る。しかし、一般的に考えてブロックの犯行は状況的にも常識的にもありえない。もしあるとすれば「二重人格」なんてのが鉄板ネタだが、そういう類の映画でもない。

「自分が犯人なのではないか」という自分を信じられなくなる疑念、十中八九、犯人だと思わしき覆面の男が目の前に現れても拭えないその疑念は、どこから来るのか。それは異常性癖と犯行の類似という表面的なものではなく、その奥に潜む"男性性"からくる支配欲や暴力性といった有害さが同一のものだとブロックが気づいているからだ。自分にも犯人たりうる属性がある。だからこそ、最後の瞬間に犯人の覆面をはぎ取り、相手の顔を認識するまで、彼はパラノイアから抜け出せないのだ。

このパラノイアは彼のパブリックイメージが前提にあることで、批評性を帯びることとなる。そしてクリントイーストウッドの持つ「男性主義」的なイメージと「ミソジニー」など女性に対する暴力性との間にある境界線について、この映画は刑事と犯人の追跡劇として動的かつ映画的に描くことで娯楽映画としても成功している。(最後に線路と列車で明確に境界線を描いて見せたのが最高)

このように『タイトロープ』においてもクリント演じるブロックの持つ「男性主義」的なキャラクターは批評性を帯びさせるために描かれているのであって、決して彼の"素性"を描いたものではないことが分かってくれるだろう。

 

以上2つの前提を基づき、ようやく『クライ・マッチョ』とクリント・イーストウッドのフィルモグラフィーについて語っていくことにする。

 

 

老いの受容と自覚、そして責任

f:id:Arch_movie:20220315012817j:plain

『クライ・マッチョ』においてまず何よりも驚愕してしまうのは、クリント・イーストウッドがカメラの正面と背面で老体を振るう様だろう。クリント・イーストウッドは1930年にサンフランシスコで生まれ、2021年には91歳を迎えた。90歳を超えて、引退してもおかしくないような御老体にも関わらず、未だに監督と主演を兼任してバリバリ現役を張っている事実に驚かされ、『クライマッチョ』の根底にある貫禄と味わい深さの源泉をクリント・イーストウッドが積み重ねてきた歴史が”皺”として、そこに表象されているからだと考えるのは妄言でもないだろう。監督業でいうと同年代で活躍している映画人としてはリドリー・スコットも監督業をバリバリ現役でこなしているが、二人には決定的な違いがある。それは映画に「老い」を反映しているか否かである。リドリー・スコットはここ数年で『最後の決闘裁判』や『ハウス・オブ・グッチ』などを撮っており、その熟練した手腕に長い監督歴を感じさせるわけだが、テーマや題材に一切「老い」は反映されていない。それもまた特異なのだが、対してクリント・イーストウッドはフィルモグラフィを重ねるごとに「老い」を映画に反映させていく。彼の作品に「老い」というテーマが如実に表れるのは『ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場』(1986年)からだ。

f:id:Arch_movie:20220315021051j:plain

『ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場』は鬼教官と新兵たちがスパルタな訓練を通して絆を紡いでいく物語で、鬼教師と不良生徒の交流を描いた日本ドラマのような味わいの戦争映画なのだが、主人公トム・ハイウェイが現役を退き、若い世代(新兵)に世代交代していく姿には、紛れもなく「老い」への自覚と受容のテーマが存在していた。またもっと遡るとすれば若い世代と年長者の構図をマイケル・チミノ監督『サンダーボルト』(1974年)に観ることができる。

『ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場』でのクリント・イーストウッドは56歳、『サンダーボルト』だと44歳。およそ50代からクリント・イーストウッドは自身の「老い」を映画に反映しはじめ、そこから『ルーキー』(1990年)『許されざる者』(1992年)『ザシークレットサービス』(1993年)『スペースカウボーイ』(2000年)『ブラットワーク』(2002年)『ミリオンダラーベイビー』(2004年)『グラントリノ』(2008年)『Jエドガー』(2011年)『ジャージーボーイズ』(2014年)『運び屋』(2018年)、そして『クライ・マッチョ』(2021年)に至るまで、それぞれの題材と強く結びつく形で「老い」のテーマが存在している。

とすれば「老い」というテーマがどういった形で映画に反映されているのか、クリント・イーストウッドにとって「老い」とは何なのか、という当然の疑問が生じるだろう。私は大きく分けて「世代交代」「過去の清算」という2つのサブテーマでクリント・イーストウッドの「老い」は構成されていると思っており、この2つの"刻印"が映画に刻まれることによって、彼の「老い」の受容と自覚から来る責任が 表面化していると思っている。

世代交代

f:id:Arch_movie:20220315020748j:plainさきほど紹介した『ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場』『サンダーボルト』は「世代交代」の要素が強い作品だといえる。他にも『ルーキー』(1990年)は若い相棒デイヴィッドとクリント・イーストウッドが演じるニックがタッグを組むバディポリスムービーであるが、映画中盤から後半で捕らわれたニックをデイヴィッドが救い出す様は、初めてクリント・イーストウッド演じるキャラクターが主役を交代し、衰えを表明する場面となっている。結局ダーティーハリーばりに見下して撃ち下ろしたり、主役に返り咲いてしまうわけで、クリント・イーストウッドの矜恃がそこに見られるのだが、ともあれ若い世代に託すという構図は後年の他作品でも多々見ることが出来ることができ、『ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場』以前の40代以前の作品には見られないものであるのだ。これは彼が「老い」ることで、次世代に引き継ぐ立場を自覚したからこそ映画に表面化したものだといえる。

世代交代といえば『グラントリノ』はまさしくクリント・イーストウッドの「世代交代」というテーマの集大成である。f:id:Arch_movie:20220315014109j:plain

家族との関係が希薄で、厄介者として扱われている元軍人のコワルスキーは、周り全てを拒絶していたが、次第に隣の家に住むモン族の一家、特に少年タオと交流を深めていく。タイトルでもある「グラン・トリノ」をモチーフに、老人であるコワルスキーから若者であるタオへの魂の継承、つまり「世代交代」が描かれており、またその最後が『アウトロー』や『ペイルライダー』『アメリカンスナイパー』に通ずる"撃たざる銃"を以てして死ぬということを踏まえると、イーストウッドの俳優業において、若い世代への世代交代を思わせるため、世代交代というテーマの究極がここにあるといっていいだろう。

『クライ・マッチョ』にも「世代交代」という形で「老い」が登場する。アメリカ-メキシコ間を往くロードムービーである本作は、クリント・イーストウッド演じるマイク・マイロとエドゥアルド・ミネット演じるラファエルの交流を描いた作品であり、その道中の交流を通してマイクはラファエルに「マッチョ」とは何かを諭し、老齢だからこその視点、振る舞いで少年に"人生"を説く。旅を通してクリント・イーストウッドが若者に「世代交代」している場面だといえるだろう。

ただ『クライ・マッチョ』が面白いのは、今のクリント・イーストウッドにとって世代交代をするということは、必ずしも現役から退く(死)こととは限らないということだ。『グラン・トリノ』(2008年)は間違いなく、自らの死を以て若者に「世代交代」した作品であり、老いたならば、必ず頭を過ぎるだろう理想の"死に様"がこの映画の結末である。にも関わらず、そこから13年後の『クライ・マッチョ』では退くどころか、旅を通して自身の居場所を改めて見つけ、人生を再出発させる男を描いている。かつて誰しもが『グラン・トリノ』を集大成として迎え入れたのにも関わらず、どういう心境の変化なのか。齢90にして『マディソン郡の橋』の如く、ラブロマンスをする漲る"生命力"にも驚嘆してしまう。その"現役"力はどこから来るのか。彼が今尚現役であるという事実、そして「世代交代」に対して自らもまた脱皮するかのように再生するマイク・マイロというキャラクター、この2つが重なり、驚愕と共に迸る"老体"の存在感が『クライ・マッチョ』の魅力の一つであることは間違いないだろう。

 

過去の清算

「老い」とはつまり、過ぎ去った時間を自らの肉体と精神に体現していくことに他ならない。幾年の歳月を通して様々な経験を身に刻み、"かつて"の記憶に引きずられ、また支えられて生き長らえる。そんな甘美かつ呪いのような時間の堆積こそが「老い」だ。

「過去の清算」とはその"かつて"に残してきた後悔といった残滓に対して、自身または下の世代に向けて責任を持ち、清算することを指す。これもまた「世代交代」と同様に、クリント・イーストウッド映画に"刻印"として強く刻まれる要素であり、そのルーツは彼の出世ジャンルである「西部劇」にまで遡ることが出来る。

そもそもとして、西部劇最大のテーマの一つである「復讐」は"かつて"を踏まえて仕返しするという点で「過去の清算」の変奏だといえる。そしてクリント・イーストウッドが演じてきた西部劇(マカロニ・ウェスタン)のほとんどで彼は「復讐者」として登場する。『荒野の用心棒』では虐げられた村の人々の代わりに悪党を成敗し、『続、夕陽のガンマン』でも南北戦争の橋を戦争で亡くなった者達の代わりに爆破してみせる。また自身が監督した『荒野のストレンジャー』でも殺された保安官の代行者として町を裁いた。『ペイルライダー』も虐げられる人々に代わり、まるで神の代行者のような不可思議さを纏いながら復讐を成し遂げる。これら三作品では、非人間的な存在感を放ち、「復讐の代行者」として登場する。そして『奴らを高く吊るせ』や『アウトロー』では、自らや自身の家族の為に「復讐の当事者」として復讐を遂行している。"最後の西部劇"と評される彼の最高傑作『許されざる者』においては彼は代行者であり、当事者でもある。因みに、『許されざる者』はよく"最後の西部劇"と評されるがそれは、クリント・イーストウッドにとっての「最後の西部劇」という意味であることは忘れがちである。そして何故彼にとっての最後であるかというと、彼が演じてきたどんな西部劇のアウトローよりも「人間的」だからであり、クリント・イーストウッドがこれまで放っていた西部劇的な神聖との決別になっているからだ。

それはともかくとして、上述のようにクリント・イーストウッドのルーツともいえるのが「復讐」というテーマだと分かって頂けたはずだ。この「復讐」という要素からは、彼の描くキャラクターの暴力性に見出すことは容易で、彼にまとわりつく男性主義的なイメージを加速させることとなったのはまず間違いない。だが自分は、彼のルーツとも言うべき「復讐」というテーマを違った角度で捉えることで彼の作家性を考察したい。それはつまり、彼の「老い」に対して「過去の清算」というテーマを導き出される要因として、西部劇的かつルーツともいうべき「復讐」があったのではないかということだ。

「復讐」というモチーフは年齢を重ねることで様々な形に変化し、作品に取り入れられていき、それらを一括りに「過去の清算」と名付けることができるはずだ。「復讐」が「老い」とともに「過去の清算」に変化し、初めて彼の作品に表れるのは、ウォルフガング・ペータゼン監督の『ザ・シークレットサービス』(1993年)だ。

f:id:Arch_movie:20220315021422j:plain

主人公ホリガンは十数年前の当時、ケネディ暗殺の現場にシークレットサービスとして居合わせながらも、救えなかった男であり、老いて警護職を退いた現在でも未だに、過去を後悔しながら生きている。そんな彼の前に"ブース"と名乗る男が現れ、大統領殺人を予告する、そしてその対戦相手としてホリガンを渦中に引きずり出されるのだ。主人公にとって「ケネディ暗殺事件」は過去の出来事であり、大統領暗殺を阻止すること、そして”ブース”を捕まえることは彼個人にとっての「過去の清算」となりうる。ここには一個人の後悔に対する最も単純な「過去の清算」の形が表れており、「老い」にまとわりつく呪いとしての後悔との向き合い方、けじめの必要性を感じ取ることができる。

f:id:Arch_movie:20220315020334j:plain

『運び屋』(2018年)において、家族を蔑ろにして花の栽培に専念してきたアールは、最後の最後に、“仕事”を放りだして死期の近い元妻のもとに向かうことで、贖罪を成そうとする。本作にも家族との遺恨を作った過去に対する「過去の清算」というテーマが読み取れるが、アールがほとんど家族を顧みなかったという事実に対して後悔していないところから始まるのが面白い。花の栽培の仕事を失うことでようやく過去を「後悔」し、そして贖罪を始めようとした矢先、"仕事"のせいで捕まり、一人孤独に花の栽培に勤しむことになる。この流れは、「過去の清算」というテーマが「老い」のもたらす「時間の堆積=後悔してきた時間」という構図を、彼が「時間の堆積=家族を傷つけていた事への無自覚だった時間」であるというように変化させている。他にも『グラン・トリノ』や『クライマッチョ』『ダーティーハリー2』『人生の特等席』などあらゆる作品で既に故人だった愛する妻が、亡くなるまでの物語となっていることも踏まえると、一個人にとっての「過去の清算」というテーマをまず自覚すること、つまり「老い」を自覚することから始めているのが本作の奇妙さを際立たせる。

f:id:Arch_movie:20220315021443j:plain

『スペース・カウボーイ』では一個人の「過去の清算」というテーマは拡大解釈されていく。宇宙飛行、或いは月面着陸に憧れながらも、その夢を絶たれてしまった若い宇宙飛行士4名が、長い年月を経て、地球に墜落しようとする人工衛星を廃棄するミッションに招集されて再び、宇宙を目指すという物語はそれ自体が「宇宙に行けなかった」という過去の後悔に対する「過去の清算」だといえる。だが、それ以上に人工衛星が冷戦時代の米ソが生み出した「曰くつきの代物」であるという真相が、4人の老宇宙飛行士が自身の命を懸けて、若者たちの代わりに人口衛星を処分するという行為に、「過去(冷戦)の清算」という意味合いを付け加える。ここには老世代が若者には負の遺産を残すべきではないという、クリント本人の「老い」に対する自覚と責任が垣間見えてくるのだ。ただこの映画が面白いのは、そういった大義よりも「宇宙(月)に行きたい」という老人たちのわがままにも似た願いのまま、純真さを保ったまま進行していくことにある。このバランス感覚もまた、イーストウッドならではだといえるだろう。

このように「過去の清算」というテーマはイーストウッド作品は頻繁に描かれる要素であり、それは一個人にとっての後悔との向き合い方であったり、世代や時代を背負う老世代として責任として表面化するわけだが、「過去の清算」における”過去”には「クリント・イーストウッドのフィルモグラフィー」も含まれてくる。『許されざる者』は彼のフィルモグラフィーの根幹にある西部劇に対するけじめだといえる。また彼が『父親達の星条旗』や『硫黄島からの手紙』、『アメリカンスナイパー』といった戦争映画や『ハドソン川の軌跡』や『チェンジリング』といった実話ベースの映画を描くことで、実際に起きた過去を再浮上させることに固執するのは、老世代だからこそ"かつて"を語り継ぐ意義や責任を感じているからなのではないか。これは執拗に"英雄"を描こうとすることにも繋がってくる。彼にとって「過去の清算」とは「老い」に対する自覚と責任感から来るものなのだ。

(「過去の清算」が描かれるのは上記の作品に加えて『ブラッドワーク』『パーフェクトワールド』『インビクタス』『トゥルークライム』『マディソン郡の橋』なんかも該当する)

このように彼はあらゆる側面で「過去の清算」というテーマを作品に大々と取り入れる。ただ『クライ・マッチョ』にはその要素がはっきりとは表面化しない。主人公マイク・マイロが以前の家族と関係が崩壊してしまったという事実は仄めかされるが、直接的な描写はない。ただ自らの哀愁ある佇まいで体現するのみ。そしてその家族にまつわる彼の後悔は新しく”家族”を見つけることで払拭され、彼が人生を再出発させる。『運び屋』とは正反対の清算方法だといえる。思えば、『運び屋』と『クライ・マッチョ』はどちらも老人が誰かの指令で映画内で延々と車を走らすという点で共通しながらも『運び屋』は犯罪行為に対して楽観的な性格の主人公が何度も車で往復して、最後には家族のもとに戻る話だったのに対し、『クライ・マッチョ』については犯罪行為に悲観的な性格の主人公が一度の往復で、最後には別の家族を見つけるという話になっている。

思えば『運び屋』と『クライ・マッチョ』はおかしな作品なのだ。『人生の特等席』では『ブラットワーク』~『アメリカンスナイパー』で共同プロデューサーをしていたロバート・ロレンツの初監督作品に主演として参加したという例外はあるが、クリント・イーストウッドは上記の二作が出るまで『グラン・トリノ』で役者を引退すると表明し、カメラの前に立つことを止めていた。『グラントリノ』はタオとの交流を通して「世代交代」が描かれ、朝鮮戦争で自らの意思で人を殺してきた元軍人として、神父との対話やラストの不殺と自己犠牲の選択に「過去の清算」を見ることが出来、まさに「老い」の集大成としての作品であり、それ以降の引退表明後で「老い」の集大成の先にある二作はどう位置づけられるのか。それはどちらにも「老い」て尚、衰えることを知らない生命力の誇示に他ならないのではないか。どちらにも『マディソン郡の橋』以来の未だ現役だと言わんばかりの女性とロマンスが描かれるし、どちらも『グラン・トリノ』とは違って死なない。一切死臭がしないのだ。

 

ここまでをまとめると、クリント・イーストウッドは『ハートブレイクリッジ/勝利の戦場』以降の作品に「世代交代」と「過去の清算」という「老い」にまつわる二つの要素を取り入れてきた。それらは「老い」への自覚と責任から来るものであり、一個人に止まらず世代というマクロ視点も含めて、年長者だからこその立場で物語を紡いできたのだ。そして『グラン・トリノ』でそれら「老い」の集大成として死を以て「世代交代」と「過去の清算」を成し遂げるのだ。そしてそこから10年後、彼は『運び屋』、更に3年後に『クライマッチョ』という一切死臭のしない、むしろ若返ったような印象すら受ける生命力に満ちた映画を撮る。多くの映画監督が90歳まで映画を撮らない、いや撮れない中で、「老い」の先に辿り着いたクリント・イーストウッドは「死」までの道程としての「老い」を『グラントリノ』で語り終え、その先にある「老い」の究極形として、瑞々しいまでの生命力を今現在進行形で彼は描いているのかもしれない。『クライマッチョ』のカウボーイに見い出せる非人間的な存在感に、彼が初期に演じた不死にも思える西部劇のアウトローの影を見るのは間違っているだろうか。

 

 

車と相棒

『クライ・マッチョ』のパンフレットの町山智浩氏のコラムによると、クリント・イーストウッドは90歳を超えた今でも自身の愛車を乗り回しており、町山氏がインタビューの終わりに「年齢を考えるとそろそろ控えるべきでは?」と、イーストウッドに忠告すると、苛立ちながら余計なお世話だと一蹴したそうだ。ここからは並々ならない車への執着が感じられ、非常に興味深いエピソードだといえる。

クリント・イーストウッドの作品には度々、「車」が登場する。『ダーティハリー』といった刑事/探偵映画での移動手段として「車」が登場することもあるが、それ以上に『センチメンタルアドベンチャー』や『パーフェクトワールド』、『ダーティファイター』『ブロンコビリー』、そして『運び屋』『クライマッチョ』といったロードムービーの文脈で登場することがほとんどだろう。それは単純にクリント・イーストウッドがロードムービーの要素を取り込んだ作品が大量に生み出していることを意味しているのだが、それにしてもクリント・イーストウッドは何故「多くのロードムービーを描いてきたのか」について考えてしまう。勿論、章冒頭に書いたエピソードから分かる運転好きが、起因していることは間違いないだろうが、他にも彼だからこその必然性があったのではないだろうか。そこで自分は彼が描いてきたロードムービーに登場する「車」というモチーフに注目して『クライ・マッチョ』に至るまで彼の車がどんな変遷を走ってきたのかについて考えたい。その際、「車」と合わせてクリント・イーストウッド映画についぞ見られた「相棒」の存在と合わせて考えていく。

 

相棒との変遷

まず「車」について書き始める前に共有しておきたい認識として、クリント・イーストウッドが演じるキャラの性質上、(特に初期作品において)「相棒」が彼の引き立て役として登場することが多いことについて触れておきたい。

例えば『ダーティーハリー』シリーズにその傾向は顕著であり、ハリーの異端さはこれまでの相棒が毎回殉職しているか引退しているという逸話が語られることによって強調される。また、実際に登場する相棒も常識枠として配置され、ハリーの常軌を逸した行動を強調する存在として描かれ、決してハリーを邪魔せず引き立て役に徹する。また『ダーティーファイター』シリーズのジェフリー・ルイス演じる相棒も、三枚目のキャラクターとして主人公ファイロのセコンドとして登場する。

もちろん例外はあるのだが『許されざる者』でさえ、クリント・イーストウッドの最後の引き金としてモーガン・フリーマン演じるネッドは死ぬのである。このようにクリント・イーストウッド作品にとって「相棒」は、彼の主人公性を強調する存在として、また死を以って動機付けや主人公の正当性を担保するため配置されることがほとんどである。これは彼の演じるキャラクターが寡黙かつタフガイであることが多く、物語上に積極的にコミュニケーションを取ってくれる相棒がいないと、物語が単調になってしまうメタ的な都合を孕んでいる。(余談だが『ダーティーファイター』の真の相棒オラウータンのクライドが登場するわけだが、『クライ・マッチョ』においても相棒として鶏のマッチョが登場しており、動物という奇妙な共通点がある)

そんな彼の相棒という概念は時折、擬似家族という形に昇華される。『アウトロー』や『ブロンコビリー』がそうであり、『グラン・トリノ』がその最終形だといえよう。(※ここではクリント・イーストウッドと擬似家族については割愛する)

更に脇道に逸れるが、これらの「クリント・イーストウッドと相棒」論を踏まえた上で『ブラッドワーク』という隠れた良作を紹介したい。

f:id:Arch_movie:20220315021537j:plain

FBI捜査官だったテリーはコードキラーと名乗る殺人鬼を追っていたが、心臓発作を起こして倒れ、取り逃してしまう。そこから二年後、心臓移植に成功して一命を取りとめたテリーは、心臓提供者の姉に出会い、妹の命を奪った事件の真相解明を依頼される、というのが主な序盤の流れで、そこからその事件が実は、過去に取り逃したコードキラーがテリーの心臓を用意しようと起こした事件であり、そしてコードキラーの正体は事件を一緒に捜査していた相棒のジャスパー・ヌーンであった、という衝撃の事実が展開していく。

あらすじからも分かるように、コードキラーとの因縁に前章で語った「過去の清算」というテーマが見出すことができるが、それ以上に興味深いのは「クリント・イーストウッドの相棒」論を踏まえると、本作における相棒ジャスパー・ヌーンがこれまでに無碍にされてきた”相棒”達のアンチテーゼに思えてならないことだ。(決して後半の衝撃展開が面白い作品というわけではない)ジャスパー・ヌーンは先ほども言ったように実はコードキラーというテリーが以前追いかけていた殺人鬼だったのだが、最初はテリーに車の運転を依頼されて引き受けた気の良い三枚目キャラの相棒として登場する。更にモブっぽいビジュアルと主人公に都合の良い存在としてほとんどキャラとして深堀りされないのも含め、まさにこれまでのクリント・イーストウッドを引き立てる相棒の典型であった。そんな彼が本当はこれまで追いかけていた殺人鬼であったというのはフィルモグラフィ史上でなかった展開であり、『サンダーボルト』のサンダーボルトとライトフット、『ザ・シークレットサービス』のフランクとアルのコンビと比較すると一層、存在感を殺され、引き立て役に回っていた"相棒という概念"が遂に反逆を起こしたように錯覚させられる。そして意外にも不思議と腑に落ちる感覚があるのだ。またジャスパー・ヌーンがテリーに対して、明らかに執着しており、追う者と追われる者の関係をまた始めたいテリーに恍惚とした表情で語るのも、無条件にクリント・イーストウッドに好感を持っていた相棒たち、特に『ダーティハリー3』や『ピンクキャデラック』のような女性の相棒たちを引き継いだようなキャラ造形にも思え、無条件の好意を向ける、都合の良い存在が属性そのままに牙を剥いたような狂気的な光景に映るのだ。

このようにジャスパー・ヌーンは「クリント・イーストウッドと相棒」論を踏まえてると極めて興味深く、そしてそんな彼を「お前はいらない」と断じて突き放すテリーに、クリント・イーストウッドにとっての"相棒"に対する意思表示が表れているのだ。

ただその相棒との関係性は『ハートブレイクリッジ』以降、特に『ルーキー』から後の作品は「老い」とともに「世代交代」の文脈で変化していくことは前章で語った通りであり、その変化の結果がセコンド、トレーナーとしてあくまで相棒として出演した『ミリオンダラーベイビー』や死の役割を相棒から引継ぎ、次世代へと繋いだ『グラントリノ』に表れ、そして究極形として『クライ・マッチョ』があるのだ。相棒は引き立て役から「老い」とともに「世代交代」する対象として肩を並べるに至るのだ。

 

動静を両立しうる"場所"としての車

これでようやく「車」に話題を移すことが出来る。ここまでの「クリント・イーストウッドと相棒」論を話す中で、どのバディーも必ずと言っていいほど「車」に同乗するシーンが描かれている。例えば「車」をキーワードに彼のフィルモグラフィーを遡ると行き当たるだろう最初期のマイケル・チミノ監督の『サンダーボルト』は、クリント・イーストウッド演じるサンダーボルトとジェフ・ブリッジズ演じるライトフット、そして後に加わる二人の昔のギャング仲間が銀行強盗を画策していくロードムービーだが、助手席に座る相棒ライトフットと運転するサンダーボルト(クリント・イーストウッド)の構図が何度も多用される。また『ダーティーハリー』シリーズにも、相棒と車で移動するシーンは多く見られる。個人的に好きな『ガントレット』(1977)というロードムービー的ポリスアクション映画においても、主人公ベン(クリント・イーストウッド)と相棒かつヒロインのガス(ソンドラ・ロック)は、普通車でフェニックスへ向かい、クライマックスではバスに乗り込み"ガントレット"へ突き進んでいく。その中で、二人は相棒として、また男女の仲として関係を深めていく。他にも先述した『ブラッドワーク』や『ダーティーファイター』『パーフェクトワールド』『ピンクキャデラック』においても相棒と一緒に車に乗り、走る中で関係を深めていく。つまりクリント・イーストウッドにとっての「車」は、場面転換を行い、物語を進行させる移動手段というより、まず第一に「相棒」と時間を共にする空間、相棒と関係性を構築していく空間として機能しているのだ。また仲を深める場所だけではないのが面白いところで『目撃』(1997)においては、事件の真相を伝え、自らの無実を勝ち取る交渉の場として扱われる。このようにクリント・イーストウッドは誰かと時間を共有する密閉空間として「車」を作劇上で用いるのだ。ロードムービーにおいてそれは基本的なことだろうと頭を過ぎった人もいるだろうが、百も承知である。そのうえで私が注目したいのは、何故クリント・イーストウッドは「車」を使って誰か(相棒)と時間を共有しようとするのか、突き詰めれば何故クリント・イーストウッドの作品において「車」はどう有効に機能しうるのかの部分である。

そこにはクリント・イーストウッドの俳優としての性質が関係してくる。彼は数本の西部劇と『ダーティーハリー』の影響とマッチョなイメージからアクション俳優とみなされることも少なくなかった。特に今のように監督業や演技を評価されていなかった頃はそれが顕著だったはず。しかしそんなアクション俳優のイメージとは違い、クリント・イーストウッドは"動かない"のだ。ドン・シーゲルがかつて「何もしないことが難しい 、彼はそれが得意だ」と言っていたように、彼は効果的なアップによって表情のみでアクションを行うがその実、彼自体は大きく動かず、何かしらの武道を披露することもない。ドル箱三部作や『ダーティーハリー』においても銃を放つことがアクションの大半で、その動性のなさをカモフラージュするために「捨て台詞」が生まれたと言っても過言ではない。クリント・イーストウッドは「静的な存在感」を醸すことこそが本領の役者なのだ。その点で『ダーティーファイター』シリーズは彼を真に動的なアクション俳優として描こうとした意欲作であったし、『アイガーサンクション』や『ファイヤーフォックス』といったスパイアクションはだからこそ彼を活かしきれずにハズレたのかもしれない。それはともかく、では何故彼の映画において、彼は動き回っているような印象を受けるのか。そこに関わってくるのがクリント・イーストウッドにとっての「車」だ。

f:id:Arch_movie:20220315020709j:plain

「車」は映画において、非常に動的な存在感を放つ。人では到底太刀打ちできないスピードと重量で動き回り、人を運ぶこともあれば、凶器として扱われることもある。その動的な存在感は非常に直線的であり、道路を突き進む印象が何よりロードムービーを人生のメタファーたらしめている。だが、ひとたび車に登場人物が乗り込み、カメラが人物を追って車内に入ると、乗り手達は座ったままに動性を失ってしまう。車自体が時速150kmを超えていても乗り手達からは静的な印象しか受けない。

つまり「車」は、外的な動性と内的な静性を兼ね備えた動静を両立しうる"場所"なのである。クリント・イーストウッドはそれを知ってか知らずか、巧みに「車」を使う事で静的な存在感を活かしながら"動く"のである。彼の静的な存在感は年齢を重ねてアクションが不可能になる程に需要は高まっていき、洗練されていく。このことを踏まえると「相棒」と関係を構築する場所として「車」を選ぶのはロードムービーとして、共同体という単位で移動する必要があることに加えて、なにより彼の魅力が最大限発揮される場所だからだといえるかもしれない。

以上よりクリント・イーストウッドにとって「車」は「相棒」と関係を発展させる共有空間であり、そしてクリント・イーストウッド本人の静的な存在感を活かしてアクションを代行する映画的な装置として存在しており、クリント・イーストウッドが映画に映るとき、なくてはならない要素であるのだ。

 

これらの「車と相棒」を踏まえて『クライマッチョ』を観ると非常に面白い。「車」でアメリカ-メキシコ間を往復するロードムービーであり、隣にはラファエルという「相棒」が乗り込んでいる。そして『ダーティーファイター』のように鶏の"マッチョ"という動物の相棒も同乗しており、これまでに語ってきたクリント・イーストウッド映画における「車と相棒」の流れを汲んでいることが分かるはずだ。

「車」においては年老いたクリント・イーストウッドのアクションの代行装置、またスピードが遅いクリント・イーストウッドの補助装置として機能し、画面に動的なシーンを生み出させている。ただ本作においては「車」だけでなく、本人もぶん殴るというアクションシーンが用意されていたり、鶏の"マッチョ"が代わりにアクションを代行していたりなど、決して「車」に頼りきりというわけではない。それよりも本作は「相棒」であるラファエルとの交流の場としての機能がより働いていた。本作の要はかつて"マッチョ"だったクリント・イーストウッド演じるマイク・マイロがラファエルに"マッチョ"を継承していくという部分であるので、相棒との共有空間として機能しているのは腑に落ちる。『クライ・マッチョ』はラファエルの抱く有害な男性性に基づくマッチョという概念をマイク・マイロは自らの佇まいや言動等を通して解きほぐしていく展開こそが彼の積み重ねてきた歳月を感じさせ、感動させられる。その交流の場としてあったのが彼らの乗る「車」だったのだ。このように『クライマッチョ』にはこれまでと変わらず、「車と相棒」という要素を見出すことができ、より純化された形で表面化した作品であるといえるだろう。

 

 

英雄の条件

彼のフィルモグラフィーについて実話原作の映画は語らずに終わることは出来ない。その始まりはチャーリー・パーカーの伝記映画である『バード』で、その後『ホワイトハンター、ブラックハート』、『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』『チェンジリング』『インビクタス/負けざる者たち』『J・エドガー』『ジャージーボーイズ』『アメリカンスナイパー』『ハドソン川の奇跡』『15時17分、パリ行き』『リチャード・ジュエル』と全12本存在している。この12本はクリント・イーストウッドの偏愛する音楽面での「憧れの対象」を題材にした作品と、クリント・イーストウッドが尊敬する「英雄」を題材とした作品に集中しているといえる。『バード』や『ジャージ―ボーイズ』は「憧れの対象」であり、『チェンジリング』『インビクタス/負けざる者たち』『アメリカンスナイパー』『ハドソン川の奇跡』『15時17分、パリ行き』『リチャード・ジュエル』は「英雄」に分類される。そこで、この章では「英雄」に区分される6本に絞り、話を進めていくこととする。その理由としては「英雄」を題材とした6作品の主人公にフォーカスすることでクリント・イーストウッドにとっての英雄像、つまり「英雄の条件」について考察し、今回のメインである『クライ・マッチョ』やこれまでに彼が演じてきたキャラクターにとっての「マッチョ」とは何かにたどり着くことができると思うからだ。

 

 

間違えられた男、高尚な精神性

では本題に入っていく。クリント・イーストウッドは度々ヒッチコック作品のような「間違えられた男」の主題を持ち込む。「間違えられた男」の主題とは、冤罪や勘違いによって人生を狂わされた男の受難を描くというもので、ヒッチコックのほとんど(特に後期)の作品にこの傾向が見られる。それは同時に間違えられることではじめて「主人公」となれるというヒッチコックの考えと、サスペンス映画にドラマを持ち込むための打算から来るヒッチコックらしいストーリーテリングだと言えるわけだが、クリント・イーストウッドにとっては「間違えられる中で正しくあろうと信念を突き通した実在の人物」を描くことは、後世にその英雄譚を残すことであり、そこに映画作りの意義だと見出しているからこそ「間違えられた男」の主題を取り扱っていると考えられるため、ヒッチコックとはまた違うのだ。

クリント・イーストウッドはドキュメンタリーでヒーロー(英雄)について「ヒーロー(英雄)の定義は人生を生き抜き、社会の役に立ち、何等かの軌跡を残す者である」と語り、加えて「誰もがヒーローになれる」とも語っている。このことを踏まえて実際に彼の作品を例に挙げていきたい。後世に英雄譚を残す意義、という点で語るなら『リチャード・ジュエル』が真っ先に思いつく。

f:id:Arch_movie:20220315022054j:plain

『リチャード・ジュエル』はオリンピックの会場に仕掛けられた爆発物を発見し、数多くの人命を救ったはずの警備員リチャード・ジュエルが、第一発見者であることからテロリストではないかとFBIや世間に疑われていく物語である。リチャード・ジュエルの持つ英雄願望や世間のプアホワイトに対する偏見が状況を更に悪化させていく展開に一個人ではなく、アメリカという国の問題が浮き彫りになっていくわけだが、このリチャード・ジュエルの「人命を救い、社会に貢献する存在への憧れが強くある」という人間性は、まさにクリント・イーストウッドが挙げる社会に役に立とうとする英雄像と重なる。ただそれだけではクリント・イーストウッドはこの題材を描かなかっただろう。リチャード・ジュエルをクリント・イーストウッドが映画化した理由、ひいては彼を英雄たらしめるのは、メディアによる煽動や体制側の圧力に晒される逆境が生み出すドラマであり、その逆境の中でも揺るがない信念を持って生きる不屈さである。

爆発物の第一発見者であったばかりにFBIに犯人として疑われたリチャード・ジュエルは不当な扱いを受けても尚、自分がFBIと同じ「正義の側」の人間であると信じて疑わず、FBIに協力的に振舞う。それが逆に彼を追い詰め、観客や弁護士のワトソン・ブライアント(サム・ロックウェル)をひりつかせていくわけだが、ここから分かるように逆境に屈せず周りに揺るがされない信念を持っていることこそが、クリント・イーストウッドにとっての「英雄の条件」なのだ。『チェンジリング』のアンジェリーナ・ジョリー演じるクリスティン・コリンズや『インビクタス/負けざる者たち』のモーガンフリーマン演じるネルソン・マンデラもまた同様のことがいえる。

更に条件を加えるなら市井の人であるというのも重要だろう。先述した「誰もがヒーローになれる」特別でない市井の人でも善行を行うことで「英雄」になれるはずだという考えがあるからで、だからこそ一般市民が信念を貫き社会に貢献する姿を描くことが特別でない自身の善性と向き合うきっかけを与えようとするのだ。その意味では『15時17分、パリ行き』で役者ではない当事者本人を起用したことにもしっかりとした意図が感じられる。

ここで一つ、問題作『ハドソン川の奇跡』を紹介しよう。

f:id:Arch_movie:20220315022307j:plain

奇跡の生還劇として知られるUSエアウェイズ1549便不時着水事故において責任を追及されたパイロットのサリーを主人公にした実話の映画化である。本作はクリント・イーストウッド監督史上最も短い97分であること、また繰り返し、着水にまつわる飛行機のシークエンスを差し込むので、クリント・イーストウッド史上最もコンパクトな作品だといえる。ただ問題があるのはそのコンパクトさではなく、事故調査を行っていたNTSBの事故調査委員会の描写である。サリーは勇気の決断をし、ハドソン川への着水を試みたが、しかし事故後のシミュレーションによると空港に引き返すことも出来たのだと判明し、事故調査委員会は彼の行動に疑念を持つ。映画では結局、シミュレーションに妥当性はなくサリーの英断が乗客155名を救ったのだと証明したのだが、実際はこの映画が描いたように事故調査委員会がサリーの判断を疑った事実はなく、NTSBの調査官から実際に反発があったそうだ。問題はそもそもとして、この題材が映画にするほどの紆余曲折がないことにあり、それ故にクリント・イーストウッドがサリーを「英雄の条件」に無理やり当てはめて「間違えられた男」として脚色し非難を受けることとなったのだ。サリーは言わずもがな155人を救った"英雄"である。だがクリント・イーストウッドの映画において、逆境に抗う姿がセットでなければならないことがこのことから分かるだろう。

『ハドソン川の奇跡』をもし155人を救った英雄にも関わらず疑われたの物語だと表現するとしたら、『アメリカンスナイパー』は160人を殺して英雄になった男の物語として対を為す作品だといえる。

f:id:Arch_movie:20220315022636j:plain

『アメリカンスナイパー』はイラク戦争に4度出兵し、160人の兵士を殺して英雄とされたクリス・カイルという伝説のスナイパーの物語だ。この作品は「間違えられた男」という主題の変奏として「彼は英雄などではなく、人殺しだ」という視点を一切作品に持ち込まず、曇りない英雄譚として描かれている。それもそのはずで、イーストウッドはクリス・カイルのような自己犠牲を以って国に尽くす姿に理想の英雄を重ねるからである。彼のドキュメンタリー『シネマティックレガシー』からもクリス・カイルへの尊敬の念は窺える。クリス・カイルも家族の許を長く離れてしまうことや人を殺すことへの葛藤、PTSDなど多くの逆境が吹き晒す中で、その一射が友人を守り、国を守り、そして家族を守ることになるのだという信念を貫いたという点でやはり、「英雄の条件」に合致する。

またクリス・カイルはイーストウッドの作品(『アウトロー』『ペイルライダー』『グラントリノ』など)に偶に見ることができる"撃たざる銃"(銃もしくはそれを模したものを相手に向け、射撃するモーションを起こすこと)を行う点でも一見イーストウッドの分身のようにも錯覚できるが、尊敬の念があることを考慮すると、その実クリント・イーストウッドが彼に自身を重ねているように思う。そしてそんなクリス・カイルに配役したブラットリー・クーパーが、『運び屋』でもクリント・イーストウッド演じるアールの同属性(若き日の自分に重なる)キャラであるコリン・ベイツ捜査官としてブラットリークーパーを配役されているのも考えるとクリントイーストウッドとブラットリー・クーパーの関係は一考に値するかもしれない。

ともあれ、ここまででクリント・イーストウッドにとっての「英雄の条件」が社会や隣人の為に貢献し、逆境に屈せず周りに揺るがされない信念、つまり高尚な精神性にこそ「英雄の条件」があることが分かってくれたはずだ。この高尚な精神性はクリント・イーストウッドがこれまで演じてきた主人公達の自警意識と結び付けて考えることも出来る。『ダーティハリー』でハリーが敵対していたのは、本質的には彼が属する警察組織であった。だからこそ最後にバッチを捨てるのだ。他にも彼が演じる主人公は自らの信念に基づき、国や体制を相手どっても引かずに不屈に抗う。そこに宿る高尚な精神性は彼の静的な演技力により表現され、常にメンタル的なタフネスを誇示するこそが彼の演じるキャラを主人公たらしめていたのだ思い知らしてくる。

 

真のマッチョとは

そう考えるとクリント・イーストウッドのキャラクターや、もしくは本人に通底する男性性やマスキュラリティーといった「マッチョ」という属性は、「英雄の条件」と強く結びついていると考えられる。つまり、「マッチョ」とは肉体のタフネスを誇示することではなく、高尚な精神性がもたらすメンタル的なタフネスを指すのだ。それこそがクリント・イーストウッドが考える真の「マッチョ」なのだ。それを踏まえて『クライ・マッチョ』における「マッチョ」について考えると、より「マッチョ」とは何かが見えてくるはずだ。

『クライ・マッチョ』において「マッチョ」が指し示すものは二つある。一つは彼らが概念として用いる「マッチョイズム」の「マッチョ」、そしてもう一つが鶏の「マッチョ」(名前)である。そもそもとして題名である『クライマッチョ』とは「泣け、マッチョ(鶏)!」と「泣くマッチョ(男)」を二重に掛けた題であるはずで、映画を観ることでそのことに気づくダブルミーニングだ。

鶏の「マッチョ」はつまり「チキンのマッチョ」であり、如何にも陳腐なネーミングなわけだが、その陳腐さも含めてラファエルが考える、また理想とする「マッチョ」を可視化したモチーフとして登場している。それはマイク・マイロが悟り見出したこれまでのクリント・イーストウッド作品から通底する「マッチョ」とは別種のものであり、つまりマイクが知る「マッチョ」(真)と鶏によって形容される「マッチョ」(偽)があるのだ。その二つを彼らは社内での交流や途中で訪れた村で馬の調教を通じて、交換するのだ。だからこそ最初はラファエルのものだった鶏のマッチョは、最後にはマイクに手渡される。マイクにとってはその鶏の「マッチョ」はただの家畜、ただの鶏に過ぎず、だから何度も食べてやると言い放つのだ。対してマイクの「マッチョ」(真)は、ラファエルに引き継がれ、彼は自らの意思を以って新たな環境へ踏み出すのだ。

ただ、本作が凄まじいのはマイク・マイロが悟り見出した「マッチョ」をほとんどエピソードが描かずに、その存在感だけで体現しているというところだろう。その代わりにエピソードで描くのが彼のラブロマンスという辺りがもう、笑うしかない。これまでの彼の作品の中で、最も優雅で余裕の身のこなしが感じさせる作品であることは間違いない。そんな所業が出来るのは彼がこれまで積み上げてきたフィルモグラフィーを含めた91年という歳月を剥き出しにしたからこそ、正に「老い」の究極形だからこそなのだ。

 

『クライ・マッチョ』は集大成なのか

ようやくここまでたどり着いた。ここまで読んでいる読者は本当にいるのだろうか。ここで適当書いても多分文句は言われないんじゃないだろうか。「クリント・イーストウッドは実は女の子である」とか適当な虚言をでっちあげてもいいかもしれない。まあそんなことは置いておいて、本題に入る。

三つの柱「老い」「車」「英雄」を通してクリント・イーストウッドのフィルモグラフィーの延長線上に本作があることはもう疑いようがないだろう。だが集大成かと言われれば難しいところだ。全64本を見たうえで率直にいうと『許されざる者』がクリント・イーストウッド初期の暴力性を謳った彼のイメージ、つまり「若かりし頃のイーストウッド」の集大成で、『グラントリノ』はそれ以降の「老い」や「車」「英雄」といった本ブログで書いたイーストウッドの作家性における集大成だといえる。それらの集大成的な作品に比べて、『クライ・マッチョ』は作品のクオリティとしても、フィルモグラフィーを総括できているかという点でも、集大成とはいえない。だが、『クライ・マッチョ』がクリント・イーストウッドのフィルモグラフィーの中で異質であるのは間違いない。もし何かしらの言葉で表現するとすれば『クライ・マッチョ』は『運び屋』とセットで、集大成(死)を越えた先に生まれた得体の知れない何かだと表現する。俳優引退を宣言し、監督業に専念してもなお、残っていた俳優としての残滓が吹きこぼれた結果、ここまでフィルモグラフィーを積み上げたからこそ生まれた奇跡が『運び屋』であり、『クライ・マッチョ』なのだ。

そう考えるともう一つ集大成が必要となってくる、というか、集大成となるようなものを作って欲しいと考えるのがファンの心情だろう。

これは願望だが、出来れば実話原作の映画で主演を張って欲しい。これまで彼は実話原作の作品で自分を主人公にすることは『ホワイトハンター、ブラックハート』でしかなかった。ここで改めて彼が実話を演じることで、彼のフィルモグラフィーを総括できはしまいか。

ただよく考えると彼が演じられる実話などあるのだろうか。思いつくのは一つしかない。それは今を生きる伝説であるクリント・イーストウッド本人の物語である。であれば、彼にとって集大成とは「映画を撮り続ける」姿勢でしか体現出来ないのかもしれない。

何よりも彼の長いフィルモグラフィーに敬意を表し、そして生きる伝説の新作を劇場で観られる幸せを噛み締めることで、この長かった旅の締めとしたい。

ここまで読んでくれた皆様、ありがとうございました。。