劇場からの失踪

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『ライフウィズミュージック』「1+1+1」の思いやり 劇場映画批評第48回

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題名:『ライフウィズミュージック』
製作国:アメリカ

監督: Sia監督
公開年:2022年

製作年:2021年

 

目次

 

あらすじ

アルコール依存症のリハビリテーションプログラムを受け、孤独に生きるズーは、祖母の急死により、長らく会っていなかった自閉症の妹・ミュージックと暮らすことに。頭の中ではいつも音楽が鳴り響く色とりどりの世界が広がっているが、周囲の変化に敏感なミュージックとの生活に戸惑い、途方に暮れるズー。そこへアパートの隣人・エボが現れ、優しく手を差し伸べる。次第に3人での穏やかな日々に居心地の良さを覚え始めたズーは、孤独や弱さと向き合い、自身も少しずつ変わろうとしていくが……。

引用元:

www.flag-pictures.co.jp

 

今回紹介するのは世界的なポップアーティストであるSiaが、原案監督脚本製作を担当した初長編作品『ライフウィズミュージック』である。過去に薬物やアルコールの依存症であった彼女の自伝的な内容になっており、また自閉症の"ミュージック"との触れ合いに、Siaが"音楽"にどれだけ救われてきたのかも垣間見れる作品になっている。それでは早速、本作について語っていきたい。

 

自閉症のミュージカル

本作の最大の特徴といえるのは、やはり現実とミュージカル空間を行き来する構成だろう。ミュージカル空間といっても一般的なミュージカルのように、登場人物が急に踊りだす形式ではなく、本作のミュージカル要素は主人公ズー(ケイト・ハドソン)の妹ミュージック(マディー・ジーグラー)の内的な世界として展開されていく。その内的な世界はビビットな彩色で構築された、まるで子供番組のような座組で、ミュージックの周りに生きる人達がにこやかに歌って踊るポップでカラフルな空間として描かれる。それらは劇中で彼女が観ている子供向けテレビ番組より連想されるものではじめとして、ミュージックや彼女の周りに起こった出会いや別れ、そういった悲喜劇的な出来事の全てが、彼女のイマジネーションを通して歌唱とダンスという形で具現化した結果としてその空間に表れる。その空間で流れる音楽は全て、本作の為に監督を務めたSiaが書き下ろした楽曲で、ダンスや衣装にも彼女の意向が強く反映されており、彼女がこれまで手掛けたMVと雰囲気は違えど、Siaにしか生み出せない独特な世界観が映画に反映されている。

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そんなミュージカル空間は、ただミュージカル映画だからと用意されたものではなく、ミュージックの抱える自閉症を誠実に描写する為に要請されたものであるというのが、非常に肝となってくる。

ミュージカル映画とはそもそも、感情や思い描いた光景といった内的な要素が、歌唱と踊りによって現実(外部)に発露される特殊な演出がなされるジャンルで、観客もその異質な演出を受容しなければ「いきなり踊り出すのが意味わからん」と一蹴されかねない映画形態である。だが、それを踏まえると本作は、一般的なミュージカル映画よりも更に歩み寄る必要があり、そこに意義すらある作品といえるかもしれない。なぜなら本作の特殊なミュージカル構成の歪さは自閉症への不理解そのものであり、本作に歩み寄ることが同時にミュージックという女性、そして自閉症患者への理解の助けとなるはずだからだ。

詳しく説明していこう。一般的なミュージカル映画が、「ミュージカル世界(内的世界)が現実を侵食している」だと表現するなら、本作は「現実がミュージカル世界(内的世界)を侵食している」真逆な手法をとった作品だといえる。それはミュージカル的空間がミュージックにとっての現実に対する受容の形であり、それが外部ではなく、内部で展開されてしまう部分にこそ、彼女の抱える自閉症の実態が表れているからだ。自閉症は決して知的障害の類の病気ではない。それは傑作ドキュメンタリー『僕が飛び跳ねる理由』を観れば詳しく分かるので是非鑑賞をおすすめしたいのだが、ともあれ、本作劇中にも台詞があるように「世界の捉え方」が我々と違うだけで、それ以外は"普通"なのだ。自閉症の方が数週間前の記憶をフラッシュバックしてしまうのは、劇中で指摘された通りだが、他にも我々が眼前の光景を認識するとき、無意識に全景→細部というプロセスで理解するのに対して自閉症の方は細部から情報が入ってくるために、全景を理解するのに時間が掛かるそうだ。(具体的に例示すると目の前に林檎のなる木を想像して欲しい。自閉症じゃない人は空や大地、そして木が最初に目に映る)

そのように我々と世界の捉え方が違い、またそれを上手く出力できないのが自閉症の患者であり、つまりいわゆる健常者との違いはただそれだけなのだ。

ミュージカル空間は、ミュージックが感じたことを言葉や態度に出せない自閉症の辛さを表しながらも、そんなことを忘れてしまうほどに、現実と自分なりに向き合い、イマジネーションに溢れた、素晴らしい感性を持つ女性だと提示する。

このように本作は、ミュージックという女性を魅力的に、また誠実に描くことで、自閉症への誤解を払拭し、他者を想いやるきっかけを与えてくれる作品になっている。

 

 

 

誰かを思いやること

本作は主要な登場人物であるズー、ミュージック、エボの三人の交流を主なストーリーラインとして進んでいく。だが、自分が最も心打たれたのはブレア・ウィリアムソンが演じるエーブルであった。それは彼が本作の根幹に通ずるキャラだからだ。

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彼はアジア系夫婦に養子として貰われた白人男性で、ミュージックの向かいの建物に住んでいる。養父に「ノロい」や「養子にとるんじゃなかった」となじられ、"男らしさ"の強要として強制的にボクシングを習わせられている彼は、高圧的かつ父権的な父親に心身共に苦しめられる毎日を過ごしながらも、ミュージックの事をいつも気にかける心優しき人物であった。

彼はいわゆる脇役で、本筋にはあまり関わらない。だが出番の少なさとは裏腹に、彼の想いやりに満ちた行動は、本作が大切にする信念だ。例えば、最初に登場したミュージックの散歩ルートでのシーン。彼はミュージックにアイス(棒状の何か)を買ってあげていた。他にも向かいの建物から懐中電灯でミュージックの部屋を照らして戯れるシーンも、二人の感性の近さを表すシーンであり、二人の友情(愛情)を感じさせるものだった。そういったミュージックを支える隣人という描写も、非常に心暖まるが、一番はボクシングのリングに上がるシーンだった。親の意向で強制的にボクシングをやらされている彼は、温厚な性格故に人を殴れない、しかし同時に彼は親の期待に応えたくもあり、遂に試合に出ることとなる。

そこで彼がとった行動は、相手を殴ることではなく、ハグをすることだった。前代未聞だろう、試合中に相手を抱きしめる者などいるはずがない。だが彼は、周りの目も気にせず、誰も傷つけたくないという信念を突き通し、対戦相手を抱きしめるのだ。そんな彼はそこにいる誰よりも勇敢に映りはしないだろうか。

現実社会において人は自らの意思ではなく、周りによって半ば強制的に"リング"に挙げられてしまう。"リング"とはすなわち周りに外堀を埋められて抜け出せない状況。それは人間関係やSNSといった場において日常的に起こり、見えない何かしらの圧力(空気)に誘導され、意図しない結果を招くだろう。もしリングに挙げられて、衆人環視の中でグローブを付けた相手と相対したとき、貴方はそこではっきりとNoを提示できるだろうか。例え"リング"に挙げられたとしても、相手と殴り合いをしなくてもいいのだ。貴方は相手を想い、不器用で意味不明でTPOを弁えていないとバカにされても、抱きしめていいのだ。そんなエーブルの姿に本作最大のテーマである「相手を想いやり、歩み寄ること」が体現されている。

エーブルの結末は筆舌し難いものであった。だが、彼は最後まで変わらず、彼の思いやりの行動は、この物語の最後に花を添え、より深みのある物語にした。本作は主要人物のズー、ミュージック、エボ、三人も互いを思いやり、支え合う生き方を選択していくというのがおおまかな流れで、ズーはミュージックと生きることを選択し、エボも不倫された元妻と兄の結婚を祝福した。誰か思いやり、歩み寄ることで、彼らは「1+1」、そして「1+1+1」の相互に想いやる生き方こそが、辛い現実を生き抜く術だと示した。だが、その描写をより多層的に深みをもたせたのはエーブルという男の存在ゆえであることは忘れてはならない。

 

最後に

単純に音楽が素晴らしい映画だろうなと、思って観に行ったが、想像を超えるドラマの出来にびっくりした。Siaは次回作等は一切検討していないようだが、Siaが映画の劇伴を担当するという形であれば、また映画で出会えるかもしれない。今後にも期待。