劇場からの失踪

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『ナイトメア・アリー』信じた者だけが宿命に囚われる 劇場映画批評第51回

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題名:『ナイトメア・アリー/Nightmare Alley』
製作国:アメリカ

監督:ギレルモ・デル・トロ監督

脚本:ギレルモ・デル・トロ、キム・モーガン

音楽:ネイサン・ジョンソン

撮影:ダン・ローストセン

美術:ブラント・ゴードン
公開年:2022年

製作年:2021年

 

目次

 

あらすじ

ショービジネスでの成功を夢みる野心にあふれた青年スタンは、人間か獣か正体不明な生き物を出し物にする怪しげなカーニバルの一座とめぐり合う。そこで読心術の技を学んだスタンは、人をひきつける天性の才能とカリスマ性を武器に、トップの興行師となる。しかし、その先には思いがけない闇が待ち受けていた。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

今回紹介するのはギレルモ・デル・トロ監督の最新作『ナイトメア・アリー』である。主演にブラットリ―・クーパー(スタン)を迎え、ルーニー・マーラ(モリ―)やケイト・ウィンスレッド(リッター博士),ウィレム・デフォー(クレム)などの実力派キャストも登場する。ギレルモ印の美醜を強烈に強調した世界観の中で行われるショーマンの失墜の物語。これまでのギレルモ作品にはなかった世界観についてやスタンという人物が何を信じてしまったのかについて考察していきます。では早速語っていきましょう。

 

超自然がまやかしとなった世界

ギレルモ・デル・トロ監督の作品と言われて何を想像するだろうか。唯一無二の造形がされたクリーチャー達が生き生きとしている姿。ゴシック調に飾られた世界観、悲劇とも喜劇とも捉えられるビターなストーリーテリング。どれ彼の作品になくてはならないものだろう。舞台が第二次世界大戦中という点は『シェイプ・オブ・ウォーター』『パンズ・ラビリンス』に通じ、ウィレム・デフォーが演じるクレムがコレクションする胎内死亡児の造形、サーカスのテントなどの美術は、『クリムゾン・ピーク』や『スケアリーストーリーズ 怖い本』(ギレルモ・デル・トロ企画製作)等でも美術監督をしているブラント・ゴードンが手掛けていて、そういった"ギレルモ・デル・トロ成分"が十分に詰まっているの本作だ。

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ただこれまでのデル・トロ作品と違っているのは、超自然が持ち込まれないサスペンス・スリラーだという点だ。主人公スタンは、サーカスで身につけた"技術"で幽霊ショーや読唇術を行い、成功を収めていく人物なのだが、あくまで"技術"であるというのが大事。戦時下ゆえに多くの人が身内を失い、多くの人が喪失を抱えた時代、スタンはその"時代の心"に付け入るように「あなたの死んだ息子(妻)は常に傍にいます」と甘言を囁くことで、多くの人の心に取り入っていった。多くの人がその技術による甘言によって、死者との繋がりを感じ、超自然的なパワーを信じ込むが、それは"まやかし"でしかないのだ。

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「死人と繋がる」という要素は、『パンズ・ラビリンス』や『クリムゾン・ピーク』などのギレルモ・デル・トロ作品でもあった要素ではある。だが、それらは「超自然的な力がある世界」として映画で描かれていたからこそ真実となり、登場人物の救いになっていた。だが、本作は超自然的な要素を持ち込まないリアリティーラインを保つことで、その「死人と繋がる」ことを明確にまやかしとして扱う。超自然をまやかしにしてしまう現実は、ギレルモ・デル・トロ作品として考えるとこれまでにないほど残酷ではなかろうか。『クリムゾン・ピーク』で幽霊のいる世界をゴシック調のユートピアとしたのと比べると、本作のルーニー・マーラが演じた幽霊のなんと間抜けなのだろう。またこれまで超自然を象徴していたクリーチャーも、本作では哀れにも瓶詰のコレクションとして描かれてしまう。(この瓶詰の胎児については後述する)。このようにまやかしになってしまった超自然ほど陳腐なものはないのだ。

だが本作はファンタジー(超自然)にすがること自体を悪とはせず、むしろファンタジーを相手に売る興行師(映画や小説の作り手、なんだって言い換えられる)を悪魔とみなし、その責任を問うている。「これはあくまでフィクションです」と伝えなければいけない、そして自らが生み出したまやかしに呑まれてはいけない、そうしなければスタンのように身を滅ぼしかねないという自戒を備え、フィクションの持つ危険性を超自然を陳腐化することで描いているのだ。作り手は忘れてはいけないのだ。人は自分を簡単に騙すことができ、そこに付け入るのはいとも容易いということを。

 

信じた者だけが宿命に囚われる

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本作は一人のショーマンの盛者必衰の物語ではあるが、彼の運命は映画の前半でピートとの会話の中やジーナのタロットカードによって示唆され、分かりきった結末だったという点で、クライマックス(キンボール判事にばれる展開)に驚きはない。何度も何度も結末が暗示されるような演出は丁寧すぎる印象を与えたが、それらは本来は回避できただろう結末に「宿命」を感じさせるための演出となっており、何故"悪魔の小路"にたどり着いてしまったのかの部分にこそ本作の本質があることを示している。そこについて考えるとき「スタンが信じてしまったもの」が重要となってくる。

まずは彼が自分の力を「過信」してしまったことが全ての始まりなのは間違いない。ピートから「真実も嘘も全て分からなくなってしまう」と忠告を受けていたにも関わらず、読唇術を始めてしまう。結果その忠告の通りに倫理観が崩れていき、やっていることのリスクすらも判断できなくなってしまう。信じるべきは自分の限界であり、仲間であったはずだ。だが、彼は過信したがゆえに、忠告されて予期された”迷路”に踏み込んでしまったのだ。キンボール判事の庭園がまるで迷路ようであったり、モリ―が直前に「私は限界を知っている」といったりなど、彼の状況は映画内で何度示唆される。

次に彼が信じたのは「リッター博士(ケイト・ブランシェット)の言葉」だ。スタンは次第にリッター博士と共犯関係になっていき、彼はリッター博士を無自覚に信頼して、金を預け始める。彼が彼女を信じたのは、彼の女性軽視の傾向があったからかもしれない。彼女をコントロールできているという過信やプライドの高い彼女を理解できていなかったことを弁えていれば、リッター博士の裏切りは無かったかもしれない。

そしてそこから派生した結果として彼は彼女のカウンセリングを信じていく。彼が最後に信じたのは、彼女のカウンセリングや言葉によって信じてしまった「宿命」だろう。彼は多くの人の"喪失"や"罪悪感"を言葉巧みに刺激することで、スピリチュアルな体験を再現していた。しかし同時に彼もまた、父親を殺した過去に苛まれ、コンプレックスを抱えていた。リッター博士はスタンに最後の場面で「貴方がピートやキンボール判事と交友関係を作ろうとするのは父親の影を見ているからだ」(そんな感じの意図の言葉)と意趣返しで罵る場面がある。彼が本当にファザコンでピートやキンボールと接触していたのかは定かではない。だがその言葉を信じることで、それらが「真実」になってしまったことこそが重要なのだ。これまでの行動は全て過去に起因しており、自分は未だに冒頭の"小屋"やサーカスに居ることが相応しい人間だと信じてしまう。彼のコンプレックスを刺激することで説得力を持ったという点は、まさに彼がこれまでやってきた降霊術のロジックと同じであり、まさに意趣返しになっているのだ。

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衝撃のラストはまさに、自身が再び「サーカス」に舞い戻ってしまったこと、特に"エノク"という胎内死亡児のホルマリン漬けと再会したことによって「宿命」という超自然的なものを「信じてしまった」ことによって迎えられる。このラストは前半のサーカスに居た頃に聞いたギークの作り方やかつての父親の姿と重なり、振り出しに戻ったかのような感覚に陥らせてくる。

『ナイトメア・アリー』がこのラストのせいで一種の迷路のような構造を持ち、振りだしに戻ることで完結するのは、そういった構造を「宿命」として信じて(受け入れて)しまった主人公の心理によって、もたらされている。彼は最後にはコントロールしてきたはずの超自然的な「宿命」という概念を「信じてしまった」が故に、自らを破滅させたのだ。

 

しかし「宿命」を信じてしまったのは観客も同じである。本章冒頭に描いたように、本作にはまるで「宿命」というものがあったかのように演出が施されている。タロットカードなどもそうだが、「乗り物で寝落ちした先でたどり着くサーカス」という展開の反復や"エノク"との再会、また廊下にいた白兎も「宿命」を連想させる。そういった演出によって彼の行いは全て、死んだ父へのコンプレックスに起因し、サーカスに舞い戻り、ギークにされてしまうのは「宿命」なのだと、思い至ってしまう。観客もまた「信じてしまう」のだ。

宿命に人が囚われてしまうのは、宿命がこの世界にそもそもあるからなのか、それとも人が宿命を「信じてしまう」からなのか。そんな答えのない迷路のような問答こそが、"悪魔の小路(ナイトメア・アリー)"だといえるかもしれない、

ピートは「自分を苦しめるものの先にいかなくてはならない」とスタンに告げた。自分を苦しめるのものとは人それぞれだが、それを「宿命」だと信じてそこで足を止めてはならないのだ。その無限回廊にも思えるスパイラルを抜け出して、現実を見据えて歩むことこそが大切なのだと本作は気づかせてくれる。