劇場からの失踪

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『ちょっと思い出しただけ』6年前から夜は変わらないのに 劇場映画批評第40回

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題名:『ちょっと思い出しただけ』
製作国:日本
監督: 松居 大悟監督
公開年:2022年

製作年:2020年

 

目次

 

あらすじ

2021年7月26日、この日34回目の誕生日を迎えた佐伯照生(池松壮亮)は、朝起きていつものようにサボテンに水をあげ、ラジオから流れる音楽に合わせて体を動かす。ステージ照明の仕事をしている彼は、誕生日の今日もダンサーに照明を当てている。一方、タクシー運転手の葉(伊藤沙莉)は、ミュージシャンの男を乗せてコロナ禍の東京の夜の街を走っていた。目的地へ向かう途中でトイレに行きたいという男を降ろし、自身もタクシーを降りると、どこからか聴こえてくる足音に吸い込まれるように歩いて行く葉。すると彼女の視線の先にはステージで踊る照生の姿があった。
 時は遡り、2020年7月26日。照生は部屋でリモート会議をし、葉は飛沫シートを付けたタクシーをマスク姿で運転している。照生は誕生日の夜に誰もいない部屋で静かに眠りにつく。また一年遡り、誕生日を迎えた照生は、昼間は散髪屋で伸びた髪を切り、夜はライブハウスでの仕事を終えたあとに行きつけのバーで常連のフミオ(成田凌)とダンス仲間の泉美(河合優実)と飲んでいた。同じ頃、居酒屋で合コンをしていた葉は、煙草を吸いに店の外に出たところで見知らぬ男から声をかけられ、話の流れでLINEを交換することに。葉のアイコンを見た男が「あれ、猫飼ってるんですか?」と尋ねると、葉は「いや…今は飼ってないけど」と返し、続けて「向こうが引き取ったから」と切ない表情でポツリと呟く。彼女がLINEのアイコンにしていた猫は、いまも照生が飼っているモンジャだった…。

時は更に1年、また1年と遡り、照生と葉の恋の始まりや、出会いの瞬間が丁寧に描かれていく。不器用な2人の二度と戻らない愛しい日々を“ちょっと思い出しただけ”。

引用元:

choiomo.com

 

今回紹介するのは、本ブログでも劇場映画批評22回で取り上げた『くれなずめ』の松居大悟監督の最新作『ちょっと思い出しただけ』です。『くれなずめ』は非常に変わった作品でしたが、パンフによると、比較的いつもの松居流の作品だったそうで、本作のようなストレートなラブストーリーの方が挑戦作だったとのこと。

製作の始まりは興味深く、クリープハイプのボーカル:尾崎世界観が自身のオールタイムベスト『ナイト・オン・ザ・プラネット』(ジム・ジャームッシュ)を下敷きにして書いた同名楽曲を、過去にMVを手がけたこともある旧知の仲の松居大悟に送り、そこから長編映画として膨らませていったという経緯らしい。ジム・ジャームッシュから始まり、複数のアーティストのバトンリレーの末に生まれたのが『ちょっと思い出しただけ』なのだ。(この題名も楽曲のフレーズの引用になっている)

『ナイト・オン・ザ・プラネット』へのオマージュを数多く捧げながら、東京で今『ナイト・オン・ザ・プラネット』が撮られたならと考えて作られた本作、早速語っていきたい。

 

「変わっていったこと」と「変わらなかったこと」

まずは『ナイト・オン・ザ・プラネット』との相違点を中心に話を進めていきたい。そのために軽く『ナイト・オン・ザ・プラネット』について説明しておく。『ナイト・オン・ザ・プラネット』はジム・ジャームッシュ監督が1991年に公開したオムニバスムービーである。ニューヨークやローマ、パリといった地球上の主要都市5箇所を舞台に、時差はあれど、同じ夜をワンメーターで語っていく構成が面白い。同じ星のもと、人々は一夜を通して繋がっているのだと、妙な気分を味わせてくれる個人的にも好きな作品である。この作品の最大の特徴は上記の通り、同じ時間の異なる5箇所で起こった出来事を描いているという構成にある。そうすることによって夜や地球といった共有する"舟"に生きる少し変わった人々の風変わりな一夜を描き出している。対して『ちょっと思い出しただけ』は同じ場所(東京)で、照生と葉の出会いから別れまでの6年間を"誕生日"にフォーカスして、1年ごと遡っていく構成となっている。つまり『ナイト・オン・ザ・プラネット』は「時間」を固定し、複数の「場所」を描き、対して『ちょっと思い出しただけ』は「場所」を固定し、複数の「時間」を描く構成になっているのだ。そうすることで『ナイト・オン・ザ・プラネット』のようなマクロな視点での人生賛歌ではなく、よりミクロな視点で個人史に焦点を絞り込み、「変わっていく人間関係や状況」と「変わらないその人の性(さが)」、その相関を描くことによって異なる角度からの人生賛歌に成功している。

対して二作で共通しているのは「営みの隙間に埋もれてしまう、忘れてしまうような時間への慈しみ」を表現していることである。それはジム・ジャームッシュがフィルモグラフィーで一貫して描いたテーマでもあるわけだが、松居大悟監督はそのテーマを見事に引き継いでいる。輝生が朝ベットで目覚めてルーティーンを行う姿はまさにそれだ。他にも葉がタクシーで出会う客とのたわいのない会話、バー「止まり木」での一幕も該当するだろう。一年後にはすっかり忘れてるだろうそんな時間を"記録"するように撮る。特に本作がコロナ禍の2021年から遡っていく構成で、"今"を描いている作品だからこそ「記録するように」という部分は非常に大切なことに思える。パンフレットに載る監督のインタビューによると、「コロナ禍で生活に欠かせなくなってしまったマスクや消毒、そして粛々と行われた東京オリンピックなどを描くことで2021年7月に撮ったからこその映画にしたかった」と語っている。今だからこそ描けること、描かなければならないこと、そして記録として後生に残すべきこと。そこにはこの映画が撮られるべき意義を見いだすことが出来る。

そういった「記録」とも表現出来る6年に渡る東京の変遷と『ナイト・オン・ザ・プラネット』と真逆と言ってもいい"縦"の構成によって、輝生と葉の二人にとって「変わっていったこと」と「変わらなかったこと」を効果的に浮き彫りにするのだ。

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『ナイト・オン・ザ・プラネット』との相違点

『ナイト・オン・ザ・プラネット』との相違点に話しを戻す。この映画にはジム・ジャームッシュのファンなら思わず笑ってしまうようなオマージュが多く用意されている。それを幕毎に列挙してみたい。『ナイト・オン・ザ・プラネット』の一幕「ロサンゼルス」は一番引き合いに出されたと言っても過言ではない。冒頭に実際のウィノナ・ライダーの出演シーンが流れたり、「映画スターにならない?」の下りやドアで足を挟みそうになる仕草、たばこをサンバイザーにしまっているところなど、挙げ始めたらキリがないほどある。そもそもとして伊藤沙理演じる葉というキャラクターは日本版ウィノナ・ライダーとして描かれており、もしウィノナ演じるコーキーを長編で描いていたのなら、彼女の言っていた"理想の男性"と結ばれる姿も描かれていたかもしれない。

二幕「ニューヨーク」からは作中きっての名言である「金は必要だが、重要じゃない」が引用される。『ナイト・オン・ザ・プラネット』好きならたまらないサービスだ。他にも「葉(ヨウ)」という名前を「ヨーヨー」から取ったと邪推もできるし、お笑い芸人の「ニューヨーク」の屋敷さんが登場しているのも奇妙な一致だといえる。三幕「パリ」についてはちょっとみつけられなかった、五つの中で一番好きなだけに残念。四幕「ローマ」からも読み取れたものは少ないが『ちょっと思い出しただけ』で永瀬正敏が座るベンチはロベルト・ベニーニが四幕最後で死体を置き去りにしていったベンチを思い起こさせる。(そのため途中ひやひやしていた)ちなみにだが、永瀬正敏は実際にジム・ジャームッシュ監督の『ミステリートレイン』と『パターソン』に出演しており、そういった目配せも気持ちがよい。彼は本作の6つの時間において常に同じ場所で不変を象徴する存在として描かれており、出番は少ないが非常に重要かつ味わい深い人物を演じていた。

最後の5幕「ヘルシンキ」からは酔っ払い三人組が引用されて、同様に妻に振られた男のやけ酒トークをタクシーで披露していた。多分だが、輝生が引っ越してくる前に住んでいた男女はこのタクシーに乗っていた男とその妻だ。そういった輝生と葉だけでなく、背景も脇役も平等に語る姿勢が随所にみられるのも本作の魅力といえるかもしれない。(まだまだあったらコメントかなんかで教えて欲しい!)

遡る物語

『ちょっと思い出しただけ』と似たような構造を持つ作品として最近だと『僕たちは大人になれなかった』を思い出す。時間を巻き戻してくストーリーテリングは、最初に「結果」があり、次に「過程」を提示する。その構成は辛い結末に心痛めながらも、そこに至るまでに積み上げた尊い時間を想うことは出来ると語ることに効果的だ。本作においても輝生と葉の関係を遡って描くことで、結果に至る原因を観客は悟ってしまう。それは先程も述べた「変わっていくこと」と「変わらないこと」の相関によって更に顕著に表れる。例えば、四年前(2017年?)の部屋でケーキを食べながら『ナイト・オン・ザ・プラネット』を見ているシーンで、葉は「言葉で伝えなきゃ分からない」と言うのに対し、はっきりと否定はしないものの輝生は「言葉がなくても伝えられることもある」と言う。特にこの言葉は2019年でダンスの共通言語的の魅力に同意していた"未来"を踏まえると、二人の強い認識の違いがここに表れている。そして2018年(前年)に決定的な喧嘩が起こるが、前後の年のエピソードを踏まえると必然にも思えてくる。そのように「結果」に対する過程がしっかりと描かれることによって「変えられなかっただろう因果」を想わずにいられないのだ。そして原因を追求することに構成の意図はなく、必然的に訪れた"現在"から過去を「ちょっと思い出す」ことで、多層的で複雑でいくつものifを内包した人生という名の「個人史」を賛歌することこそ、この映画の本質なのだと、私は思うのだ。