劇場からの失踪

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『みんな、おしゃべり!』 劇場映画批評138回 意思疎通に必要なのは道具ではなく、姿勢

@2025映画『みんな、おしゃべり!』製作委員会

題名:『みんな、おしゃべり!』
製作国:日本

監督:河合 健 監督

脚本:河合健   ⼄⿊恭平  竹浪春花


公開年:2025年

 

 

目次

 

あらすじ

日本手話とクルド語を題材に、ろう者の日本人家族とクルド人一家が繰り広げる誇り高き小競り合いの行方を描いたコメディ。

古賀夏海は電器店を営むろう者の父と弟と暮らしているが、ある日、一家は同じ町に暮らすクルド人家族と些細なすれ違いから対立してしまう。両者の通訳として駆り出されたのは聴者である夏海と、クルド人一家の中で唯一日本語を話せるヒワだった。お互いの家族の通訳をするなかで、夏海とヒワの間には次第に信頼関係が生まれるが、両家の対立は深まるばかり。そんなある日、夏海の弟・駿が描いた謎の文字が、町を巻き込む事態へと発展してしまう。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

 

今年観た邦画だと一番素晴らしい映画だった。

〇体幹のある映画

「共通言語を持たない意思疎通の困難な他者と、どう付き合っていくか」というテーマを徹底的に深堀している脚本にまず脱帽。「クルド人vsろう者」という宣伝上のキャッチーな建付けに終始することなく、別言語の話者や子供/老人とあらゆる要素が「意思疎通の難しさ」というテーマの奥行を表現する為に持ち込まれていて、テーマに正面から向き合っていることが伝わってくる。
要素がこれだけあると、大抵整理されてない印象を与えてしまったりする。実際、幾つもの要素は渋滞気味で散乱しており、場面によって「分かりにくい」と感じることもある。
だが、要素入り乱れるカオスな状況が作り出す"分かりにくさ"や"意味不明さ"は、実は最終的に提案される「一つのスタンス」を表現するには欠かせない面白みに繋がっていて、"分からなくてもいい"を計算に入れた脚本に、非常に体幹のある映画だと感じた。

 

〇対立に挟まれる若者世代

まず素晴らしいと感じたのは、描かれる人々が属性への偏見なく、個性的に描かれている所だ。
例えば、ろう者側の中心的な人物である古賀和彦。ろう者をはじめとして障害を抱える人々は、どこか「気が弱い」ように描かれがちな中で、彼の気の強さや癇癪持ちに近い振る舞いの数々は、属性への偏見とは遠いところにあるキャラクターになっていた。また対立項として登場するクルド人や聴者に対して、ろう者側グループが差別的な偏見を表していたりするのも興味深い。自分たちを聴覚障害者ではなく、(手話を第一言語とする)"ろう者"であるとアイデンティティを表明する一方で、「クルド人かトルコ人か」という相手のアイデンティティには関心を示さない。
ときにマイノリティーも差別する側になってしまうというインターセクショナリティーの考え方がはっきりと描写されていた。

町おこしの件で沖田がマイノリティーをジャンル分け、一括りにして連帯の仕組み作りするのも、このインターセクショナリティー的な思考がなく、マジョリティーに都合のいい形で連帯に与させようとするから問題なのである。
自分も典型的なマジョリティであるシスヘテロ健常者なので、分かった気になるのは危険だが、一味違う本作は自分を啓蒙するのには十分すぎるディテールを持っていた。


また凄く観点として興味深いと思ったのは、クルド人vsろう者という構図の中で、CODAと二世の若者世代にフォーカスしている点だろう。
どちらも若い頃から日本の健聴者との橋渡し役を担ってきたのが分かる。それでいて苦労を共有しつつも、スタンスが異なっていたりするのだ。夏海は問題を大きくしないように、ニュアンスを変えて通訳をするが、ヒワは自分の意思を挟むことなく、そのまま通訳したりする。そこに見える考え方の違いは言語文化に対する考え方や性格の差が要因だろう。
そんな異なるスタンスの彼らが、「タンタン、タタンッ」という机を指で叩くリズム一つで繋がっていき、「ろう者」とも「クルド人」とも違う仲間意識に目覚めていくのだ。

単純に同世代的意識、親世代への反感からの連帯とも違うのではないだろう。「タンタン、タタンッ」という、言語と表現するには乏しい〈発信〉を、たまたま〈受信〉する人がいて、そしてベストな形で〈応える〉という構図。
とてもシンプルだけど、リズムが共通言語として意思疎通を可能にすると示したこのシーンは「共通言語」を持つことの難しさを痛感する前半に対して、共通言語を狭義の意味から解き放ち、意思疎通の可能性を押し広げられるのではないかという予感をもたらすのである。

二人の連帯が、家出展開に繋がっていくのも痛快でいいし、帰ってきたら親世代間で問題が解決していたという展開もユーモラスさだ。そればかりか若者世代が背負う重荷から、すんなり解放されたような感動すらあり、この映画の佇まいにより一層見惚れてしまった。


上記に加え、"理解不可能な他者"代表のような子供が登場してオリジナル言語で会話を始めたり、意思疎通の難しい老人が出てきたりする。色々なバックボーンで、様々な関係図にいる人々が、整理し難い形でいっぱい登場してくるので冒頭に書いたように、なかなかカオスだ。
しかし彼ら一人一人の解像度が上がったり、そもそも「よく分からない」他者の人数が増えることが、エンタメになっている。
それが本作の凄いところなのだ。

 

 

〇意思疎通に必要なのは道具ではなく、姿勢

言語は重要なコミュニケーションの道具である。この日本において日本語は便利な道具で、それさえあればその辺の道端で出会う100人のうち、99人ぐらいはコミュニケーションができるはずだ(多分)。
しかしそれは裏返しとして、日本語を第一言語としない人々にとっては100人に1人ぐらいしかコミュニケーションできないということだ。それがクルド人となれば、言語が同化政策で迫害されてきた歴史を踏まえずとも、その難しさを容易に想像出来るし、意思疎通の相手が日本のろう者となれば尚更、意思疎通など不可能に思える。
クルド人vsろう者という構造は(ここまで丁寧に説明せずとも分かるが)そういった意思疎通が不可能な状況として、これ以上ない建付けなのだ、
だが本作はその言語的な分断が、この両陣営のディスコミュニケーションの原因とは描かないのである。最初こそ、通訳のできる夏海とヒワが居なきゃ難しい状況を描いて「共通言語」の必要性を感じさせる。しかし次第に観客の焦点はシフトしていき、必要なのは「道具」ではなく、「姿勢」なのではないか悟らされるのだ。

きっかけは、上記した指で机を叩くリズムだで意思疎通の"道具"は言語に限らないことが示唆される。
続く子供達のオリジナル言語は、〈言語〉自体を脱構築する。
大人は意味不明な言語を使い、コミュニケーションを取ろうとしない子供達に困惑を示す。ときにクルド人との対立項に取り込もうとしてくる。
ここでの古賀家の息子は本作で随一といっても過言ではないほどに「理解不能な他者」として不気味に映り続ける。(昨今の相米フォロワー作品のDNAを瞬間的に強く感じた)
しかしその言語と話者が不気味に映るのは、そもそもとして彼ら子供達に対して大人が「理解する」姿勢が存在しないからだ。特に和彦の息子は、例え手話という共通言語があったとしても姿勢がなければ理解しえないことを示しており、ディスコミュニケーションの原因は「道具」ではなく「姿勢」だと明確に描かれているのだ。

子供達の言語は単なる児戯に過ぎず、一過性の遊びでしかない。つまり子供達は言語を道具から〈玩具〉にしてみせており、その点においても道具としての「言語」を過大評価を提示しているかのようだった。

 

そして極めつけはヒワと夏海の逃避行だ。彼らは言語なんて、通訳なんて、と笑い飛ばしながら繁華街を飲み歩く。この瞬間だけ、テーマを忘れてしまいそうになるほどに美しい若者達の青春がある。
ここで登場する"オリジナル言語"は子供達のパートで示していることを補強するだけでなく、言語的な分断と意思疎通の不可能性
を結ぶ因果関係を解体をしていく。
意思疎通が不可能なのは、クルド語や手話が分からないからではなく、そもそも意思疎通する「姿勢」がそこにないから。
「姿勢」さえあれば相手の持つ言語を理解する必要はなくとも、意思疎通は可能だし、共通言語はいくらだって発生しうるのだ。

 

勘違いすべきでないのは、クルド語や手話を受け継ぎ守ってきた背景は蔑ろにはしていないということだ。「言語」を貶めることが目的ではなく、意思疎通における「言語」の過大評価を指摘することが目的としている。そこは同じことのようで、全く異なる性質のものだろう。

 

 

〇提案されるスタンス

本作のラスト5分は本作をとんでもない所へと飛躍させていく。まさかこの映画のリアリティーラインで「未知との遭遇」を見せられるとは思っていなかった。
しかし不思議とこの終わり方が納得できるのは、本作が「共通言語を持たない意思疎通の困難な他者と、どう付き合っていくか」をずっと描いているからだ。
ある種の応用編としての宇宙人。だからチョケてるようには思えないし、なんなら感涙してしまう場面であった。

この場面が意味するのは、一つのスタンスの提案だと思う。

それは「意思疎通の難しい他者に対してオープンな「姿勢」である方が、楽しくないかい?」というスタンスだ。排外主義的な昨今、意思疎通の難しい相手は容易に恐怖の対象や「敵」としてラベリングされてしまう。しかし意思疎通を試みれば案外楽しいことがあるかもしれない。そんな楽観は、いつしか「宇宙人」とだって仲良く機会を運ぶかもしれない。
その意思疎通の際には当然「分からない」事ばかりだろうし、意味不明だろう。だが、本作が提示したスタンスとは、そんな「意味不明」すらも面白く魅力的なんだと伝えてくれている。

なんて清々しい映画なのだろうと、思わずにはいられなかった。

 

 

『アステロイド・シティー』 劇場映画批評137回 どこまで他人事の喪失に寄り添えるのかという問い

(C)2023 FOCUS FEATURES, LLC.

※上映当時に書いた文章を転載しています。

 

 

 

目次

 

 

相変わらず期待したものがそこにある。劇場に行けば期待したものがあるという、安定したクオリティーがもたらす平穏さが、ウェス・アンダーソン作品にはある。



彼の作品には一貫した強迫観念に囚われた構図と演技演出プランが存在する。

そしてストーリーは、常に喪失感とノスタルジーを感じさせる"後ろ髪引かれるもの達"の群像劇であり、そんな登場人物へと向けられる寛容と憧憬の帯びたウェスアンダーソンの視座で語られるのだ。本作を過去最高傑作とは言わない。

だが、「ありがとう」とは言わずにはいられない。そんな作品だ。

詳しく書いていく。


①過去作との相違

まずは過去作との比較を行っていきたい。
パッと思いつくのは『ムーンライズ・キングダム』だ。ムーンライズ・キングダムが黄色と青のツートーンを基調とした作品だったのに対して、本作も青い空と黄色(に近い)砂の二色が印象的で、他作に比べてもカラーパレットが類似しているといえる。

またウッドロウとダイナの子供達の恋物語と大人の恋物語を並行させることで、子供を大人と対等に描こうとすると視座が似ている。ただその観点で語るならやや描写不足は否めない。単純に尺の違いから来るものだろうが。
またジェイソン・シュワルツマン繋がりで、『天才マックスの世界』を引き合いに出すのもいいだろう。彼の主演作が久しぶりなのも興奮するが、何よりかつて"天才少年"だった彼が、"天才少年の父親役"となっていることに感慨深いものがあるわけだ。


そして何より前作『フレンチ・ディスパッチ』と比べると興味深い。『フレンチ・ディスパッチ』はフランスのとある雑誌の廃刊記念号を"映画化"した作品で、そのコンセプトは"現実に実在する雑誌"という体裁のフィクションだ。

対して本作は、最初に"作り話"(フィクション)だと言い切って始まり、架空の人物達の"現実"をメタ的並走させる。つまり本作は『フレンチ・ディスパッチ』と違い、フィクションであることを"自覚"している作品として作られているのだ。この入れ子構造は『グランドブタペストホテル』と同様だ。
このフィクションであることの自覚が、本作の興味深いところの一つであるので詳しく後述する。
ともかく過去作との相違点を記述してきたのは、そこに面白みがあるからだ。面白味を感じるのは、ウェス・アンダーソンにはスタイルがあり、そのスタイルからはみ出た部分にその作品の傾向や監督としての変化等、そういった観点が生まれうるからだろう。作家性を軸に追いかける監督としてこれ以上のコンテンツはない。


②喪失、込められたもの、見えない者、カットされてしまった人の感情

ウェス作品には必ずと言っていいほど、家族の喪失が描かれる。ルックの鮮やかさ、柔らかさに反すして喪失感に打ちのめされている登場人物達。そのギャップこそ、ウェス・アンダーソン印なわけだが、本作にはそこに一捻りがあるように思うのだ。

それこそ上記した入れ子構造により、役者と登場人物が不一致であることを自覚した作品だからこそ「喪失」の物語を語るについて一考を要するのだ。
それについて語る前に本作が50年代を舞台にし、マリリン・モンローやマーロン・ブランドといった、アクターズスタジオ出身のメソッド演技者がハリウッド映画を変えてしまった時代背景を、把握すべきである。スカヨハ演じるキャラが明らかにマリリンモンローを参照項としていたように、またジェイソン・シュワルツマン演じる彼が、劇中劇外において、まさにメソッド演技的な役作りをしていたように、メソッド演技というのは重要なモチーフである。

それを踏まえると、劇中クライマックスのカオスによって一度舞台から飛び出すジェイソン・シュワルツマンの行動が興味深い。

彼は"アステロイドシティ"内の感情の動線が分からなくなり飛び出してしまう。その先で出会うのは、マーゴット・ロビー演じる亡くなった妻役の役者である。彼女は劇には出ない。しかし彼女はまるでわがことのように、その物語上の喪失について語るのだ。
彼のメソッド演技の限界は、どこまで人の喪失に寄り添うのかという問いであり、それに対して、舞台にも上がらない役者と言葉を交わすことで、劇中の喪失を受容するのである。

これは役者への讃歌だ。役者とはこうも、虚構に"真実味"を見出すことのできる存在なのだと、褒めたたえているのだ。

そして他人事にどれだけ寄り添えるかという問題への希望に満ちた回答なのだ。ウェスの描いてきた「喪失」全てへのスタンスの表明にも思える。


③偽史、込められた憧憬と現在

今回アメリカ50年代というのが、かなり重要なのは前項でも少し触れたが、さらにその背景を深掘りするとフロンティアというモチーフが立ち上がってくる。

アメリカはフロンティアスピリットに従い、とにかく開拓を推し進めてきた。そこに移動が伴い、移動することによって万事は解決するといういわゆる"移動神話"とも表現すべき精神が根底にある。それは西部開拓時代をとうに終えた50年代においては、宇宙へと向けられる。詳しくは「荒野のオデュッセイア」に書かれているので参照してほしいが、ともかくこの映画はそんなフロンティアの話でもあるのだ。
そして現代の視点からいうと、エイリアンが登場し、「powerful america」を旗に刻んだ科学大会といった要素は、トランプ元大統領の掲げていた「古き良きアメリカへの回帰」の話を思い出させる。
そして本作はそんな現代に対して、ある種の偽史として反対を表明する。注目すべきはエイリアンに対する面々の反応だろう。彼らは大人子ども等しく同様を見せる。そこに差異はない。
子供のエイリアンに対する当然の疑問は、大人に向けられる。それに対してアステロイドシティの住民の「彼らは敵ではない」という安直な答えがもたらされる。
ここにはある種の偽史を通した、スタンスの表明があるのだろう。

ウェスはとにかく過去を美化してきた人、というか過去の良かった部分を強調し、悪い部分をノスタルジーという名のオブラートに包む人だった。だが、本作ではどこかフロンティア精神の過去のアメリカに対して、多少の批判的な視点があるように感じる。それは今のアメリカが、このアメリカの延長線上にあるからなのだろう。
そういったところに「いつも通り」以上に、ちょっといつもと違うなが、目立つ作品だった。

『ミッション:インポッシブル デッド・レコニング PART1』劇場映画批評136回 割かし何も解決してない映画

(C)2023 PARAMOUNT PICTURES.

題名:『ミッション:インポッシブル デッド・レコニング part one』
製作国:アメリカ

監督:クリストファー・マッカリー監督

脚本:クリストファー・マッカリー エリック・ジェンドレセン

音楽:ローン・バルフェ

撮影:フレイザー・タガート

美術:ゲイリー・フリーマン
公開年:2023年

製作年:2023年

 

 

目次

 

あらすじ

IMFのエージェント、イーサン・ハントに、新たなミッションが課される。それは、全人類を脅かす新兵器を悪の手に渡る前に見つけ出すというものだった。しかし、そんなイーサンに、IMF所属以前の彼の過去を知るある男が迫り、世界各地で命を懸けた攻防を繰り広げることになる。今回のミッションはいかなる犠牲を払ってでも達成せねばならず、イーサンは仲間のためにも決断を迫られることになる。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

改めてこれまでのシリーズ作品を鑑賞した上での鑑賞。

多くの語り口があると思うのだが、三つの要点にまとめて語ってみたい。

 

アクションについて

クリストファ・マッカリーが監督に就任したローグネイション以降、加速度的にM:Iシリーズはアクションファーストを極めていった。
それは単純なアクションパート>ストーリーパートという尺の割合や作品のセールスポイントには留まらず、製作体制にも及び、脚本未完成な状態でアクションをまず撮るという異例な体制は、公開前にメイキングを予告編代わりにするスタイルに象徴されると言える。
そこまでいくと、自縄自縛になってはいないかと思うところもあるが、全てのアクションにノースタントで挑むトム・クルーズという"狂人"の能力と看板能力によって、唯一無二のアクション映画は成立しているのだ。
『ローグネイション』は、そのスタイルの歪さがMAXに反映されていて、冒頭の全くストーリーに関与しないアクションから始まり、ストーリーの閉じ方もかなり無理やりな印象で、アクションとストーリーが全く噛み合っていないものに仕上がっていた。

 


その次の『フォールアウト』は製作側のイーサン・ハントを単なるアクション装置ではなく、一人のキャラクターとして描こうという意志を感じた。イーサン・ハントが恐れていることは何なのか、彼は何の為に世界を救うのか、という問に対して、M:I-3で登場したジュリアという元妻の設定を引き継ぎ、「彼女がこの世界に生きている だから世界を救う」という答えを示し、モチベーションの所在を明らかにしたのだ。そのドラマ成分とアクションパートが極めて高いレベルで融合していて、マッカリー監督の手法の成功をここにみた気がしたのだ。
(いつかは失敗してしまう、いつかは世界を救い損ねる、そしてジュリアを失ってしまうのではないか?というイーサンの不安や危機感を、"落ちる"という運動に繋がるアクションの連続によって表現し、彼は"落ちない"からこそ、世界を救うのだと描いて見せた。ここが私の言うドラマとアクションの融合の部分)


それを踏まえて今回のアクションについて考えてみよう。今回まず目玉として用意されているのは崖からバイク落下だ。劇場で何回もそのメイキング映像が流されて、その映像の凄まじさに崖からバイクと一緒に落下するトム・クルーズのほうがアバター2よりも面白いと思ったほどだった。ついでに言うと、本編でCGでちゃんとした崖になっていたが、崖際に建設された飛台がないことにめっちゃ違和感があった、メイキング映像を先に何回も見せる事のデメリットといえるかもしれない。

そんな崖からのバイク落下、ストーリー的にも必然性に乏しいアクションで、これぞM:Iというアクションだが、正直にいって前作の"ヘイロージャンプ"のほうが凄いと私は感じた。いくらメイキングをみせて、本人スタントだとアピールしても、画として良いか悪いかはその映画の中にあるものとして判断されるべきだ。

そう考えるとヘイロージャンプはそのアクションの中にもヘンリー・カヴィル演じるウォーカーの気絶なんかのスリリング成分が詰まっていて良かったが、今回は列車にたどり着けないかもしれないという要素やパラシュートが開かないかもしれないという要素が一切ない。アクションをただ見せるだけで、そこにドラマ成分がないのだ。そう思うと後退、というかやりたくても上手くアクションにドラマを込められなかったって感じなのかもしれない。この撮り方だとそれは時に起こりうることだろう、仕方ない。(脚本→アクションの単純な製作工程ならば、ハッキリ後退してると思う)

 


他のアクションについても考える。実はフォールアウトが縦のアクションが多かったのに対して、本作は横のアクションが多く見受けられる。特に面白いのは、オリエント急行でのアクション。これは実は一作目オマージュの列車アクション(横のアクション)をやり、そのあとに谷に墜落する電車を登っていくという縦のアクションにシームレスに移行する見事な展開になっていて、素晴らしいアクションシーンになっている。
1作目のような今にも振り落とされそうな列車のスピード感は感じられず残念なのだが、それでも横→縦の使い方で充分に見応えのあるラストシークエンスになっていた。(インディ新作にも感じたが、列車上アクションのマンネリ感は一つ問題だと思う。)
他のアクションは正直パッとしないものが多く残った印象。ベニスの剣アクションや路地裏の殴り合いetc… どれも微妙だった。

 

マクガフィンについて

ストーリー構成において他シリーズ作品と比べて特徴と言えるのはマクガフィン(広義の意味で、キーアイテム的な用法)の扱い方だろう。これまでもイーサン・ハントの前には「世界(あるいは世界の均衡)を滅ぼしうる何か」がマクガフィンとして登場する。その傾向は1作目からの傾向で、3に関しては名前しか説明されない始末である。(なんならマクガフィンとしての軽薄なそれを自嘲してる節もある)

 

正直M:Iにおいて「世界がどうヤバいのか」は大した問題ではなく、それが核だろうがなんだろうが別に大した関係なく、重要なのは「何個あるか、或いはどうしたらその兵器は発動してしまうか」なのだ。なぜならそれがシーンを生み出すからだ。

そのことを踏まえると今回の"鍵"というマクガフィンは面白い効果を産んでいる。
鍵はこれまでのマクガフィンと比べても小さく、それ自体に効果はなく、ただの道具である。
懐に隠しやすいサイズであることで、各陣営感でのやり取りの応酬に繋がっているし、列車内でのアクションにおいて利便的である。またAIという人類の敵の掴みどころのなさ、ある意味で運命なんかと同義の高次元の観念として描かれているのも、その実態あるマクガフィンを用意したからこそといえる。つまりAiIもまたマクガフィンだが、そのマクガフィンの為のマクガフィンとして鍵が登場しているのだ。
それはM:Iシリーズにおいては発明的。マジでマクガフィンで話を進めてやるぜという意気込みを感じさせるのだ。


余談だが、あのマジックのような仕草は明らかな一作目オマージュだろう。オリエント急行でのクライマックスもそうだし、前作『フォールアウト』でもアバンでの下りやウィドウとの会話で挿入される回想なんかも1作目オマージュ。マッカリーは1作目から要素を持ってこようとする意志を感じることがあり、そこには多分、一作目からどんどん離れていくM:Iシリーズへの引け目か、どうにか接点を維持しようとする意味合いがあるのかもしれない。


ストーリー(及び撮影)について

言いたいことは山ほどある。
このでも四つぐらいに話を分けて語りたい。
まず深刻化する女性陣を守るイーサンという構図。マッカリー作品の明確な欠点として、イーサンのピンチとしてチームメンバーを人質にする展開をやりたがるというやつ。ベンジーから始まり、ルーサー、イルサと全員人質経験がある。
これの深刻な部分はチームなイーサン・ハントにとって対等なものとして描かれてないことの証左になっていることだろう。イーサン・ハントが人質になることはなく、イーサン・ハントにとっての最悪としてチームメンバーの死があるという図式。彼を主体にしすぎて チームが守らねばならないものに成り下がっている。

 特にそれは女性陣にほこさきがむけられていて、グレースかイルサかみたいな展開には、マチズモやフィクション内でのジェンダー的な配置を想起せざるを得ない。
特に本作ではイルサが死ぬ訳で、その前降りとしてイーサンと仲睦まじくベニスの屋上でハグしてる姿が挿入される。違和感たっぷりな映像の順序だと思った、何故なら二人の関係性がよく分からんからだ。友情ということで間違ってはいないが、あのシーンベンジーとルーサーを省いてやる必要はあったのだろうか?
対比として1人曇りのベニスで黄昏れるイーサンがカットインする訳で、まぁ機能はしているけど、やっぱ透けて見えるイーサン中心の世界は、逆にイーサンをよく分からん存在にしていると思う。
仲間描写としてはルーサーがイーサン・ハントにオリエント急行ミッションの失敗条件をしっかり提示して、観客の為にも情報を整理する場面が良い。観客としてもありがたいし尚且つルーサーとイーサンの関係性を改めて描く良いシーンだった。

 

次にIMFという組織とイーサンの関係
これも結構よく分からない部分。イーサンとINFの関係性はハリーポッターシリーズのホグワーツ並に関係性が監督ごとに描き方が違っていて、いまいちどう言った関係なのか分からない。
まず前提として国営の独立組織であること。そして映画で映されている限りでも相当回数組織を無視して独断専行していること。ローグネイションではIMFに追われてましたよね?ゴーストプロトコルでは見限られてましたよね?
そういうことを考慮するとイーサン・ハントにとって組織は、「仕方なくいるところなのか」或いは「居心地がいいところなのか」が自分にはよく分からない。

マッカリー作品に限れば、「使い捨てスパイなんてやめた方がいい」という話をローグネイションで本人もしていて、イルサとの会話の中でスパイなんて辞めてしまえという話が出てくる。またフォールアウトでは彼が世界を救うモチベの所在が分かり、IMFにたとえ酷い目にあっても在籍するのは、わけがあることが判明する。その展開の印象としては、IMFのことを好いてはいないというものだった。

だが、本作はいい選択だと、若き諜報員を歓迎したり、我々は"選択"したといって、居場所であることを多少なりとも肯定的に描いているように感じたのだ。その割にはボスにカチコミしたりとやりたい放題で、組織もほっとき放題すぎないだろうか?


話は逸れるが刑務所入るぐらいなら組織入るって感じを出してたが、ベンジーもそうなんですか?
3を見た感じ、あの組織にいる人が全員そういうバックボーンがあるとは思えなかったんですよね。


なんだか今回で改めてIMFが再定義されたようで、それを踏まえてのpart2だと思うので、次の作品ではノイズにはならないだろうが、ストーリーを追う上でやっぱ気になるところだった。

ともあれ私が言いたいのはラストのグレースがIMFに参加する終わりをどういう感情で観ればいいのか分からないということだ。イーサン・ハントの周りの人は影に生きる羽目になるというある種の既定路線に入ったのか、『エイジ・オブ・ウルトロン』ばりのIMFにようこそ!なのか。
うーん、あのグレースがよく分からないのもあって、うーんな終わり方だった。


会話シーンについて

今回新たに撮影監督としてフレイザー・タガートを起用したからか、会話シーンが独特なショットになっている。印象的なのは予告にも使われたイーサン・ハントとIMFのボスが煙い中で話してるシーン。

超至近距離かつ煽るようなローアングルで斜めに撮るショット(ダッチアングル)で切り返すシーンで、あそこまで鋭角に至近距離で撮るのもこのシリーズでは珍しい印象だ。この撮り方はあらゆる会話シーンで採用されていて、一番すごいと思ったのは、あのクラブで各陣営が会話してるシーン。見栄を切るようなショットによって緊張感、それぞれの視線の交錯を演出されていて非常に興味深くはあった。ただ"やりすぎ"なきらいはある。
効果はあるが、ピンポイントでやってるわけではないので、シーンとしてぼんやりしてしまってる感じがする。

 

最後にこの映画が何をテーマにしてたのかについて。
自分としてはまず最初に思ったのは、過去との対峙というテーマだ。M:Iに入る前のイーサン・ハントを回想させるのだからあからさまだ。(フォールアウトではジュリアが核爆発に巻き込まれる悪夢から始まる)
しかし観ていると『トップガンマーヴェリック』のようなAIとの対決の構図も立ち上がってくる。
過去との対決なのか、AIとの対決なのか、その両方なのだろうが、どう整理してカタをつけるのか。
AIとの対決は本質は全く違うが、ハリウッドで起こっているストライキに絡めて考えることができるし、トム・クルーズという存在が抗っているものなので、否応なく盛り上がる対立構造だ。対して過去との闘い。これまで語られてなかった話を"過去"として対面することは『トップガンマーヴェリック』のグースともまた違う。


今回そのどちらにも曖昧で、ガブリエルを殺さなかったという選択が、過去の影からの解放を意味するのだろうが、ガブリエルは結局生きてるし、次で必ず対決することは必至なので、その過去とAIとの対立構造は未だ変化せず存在する。


そう思うと本作は割かし何も解決してない映画になっていると思う。

ほとんどマクガフィンの争奪戦以外話が進まずに終わった本作、マジで続編どうすんだろ。

 

『君たちはどう生きるか』劇場映画批評135回 教えて下さい「どう生きるんですか?」

(C)2023 Studio Ghibli

題名:『君たちはどう生きるか』
製作国:日本

監督:宮崎駿監督

脚本:宮崎駿

音楽:久石譲

撮影:藪田順二

美術:武重洋二
公開年:2023年

製作年:2023年

 

 

目次

 

あらすじ

母親を火事で失った少年・眞人(まひと)は父の勝一とともに東京を離れ、「青鷺屋敷」と呼ばれる広大なお屋敷に引っ越してくる。亡き母の妹であり、新たな母親になった夏子に対して複雑な感情を抱き、転校先の学校でも孤立した日々を送る眞人。そんな彼の前にある日、鳥と人間の姿を行き来する不思議な青サギが現れる。その青サギに導かれ、眞人は生と死が渾然一体となった世界に迷い込んでいく。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

どんな説教されるのかと思っていたら、言葉にならないまとまりのない言葉(表現)が羅列され、挙句の果てに「はい、さようなら」と挨拶されてどっかに行ってしまった。
どんな感情よりもまず、"いたたまれなさ"が飛び出してくる映画体験は初めてかもしれない。
如何に"ジブリ的"な表現を挙げ連ねようとあの塔の中の世界観に漂う欠乏感は否めなくて、それが"わざと"とはまた違うものな気がして、世界(ジブリ)は滅ぶべくして滅ぶのだなと…

如何なる才人でも年齢を重ねると枯れるものなんだな…
やっぱイーストウッドとかホドロフスキーってマジで化け物なんだよ。


①「見たことある世界」

この映画は都内病院の火事から始まる。そこには母が居て、火事に巻き込まれて死んでしまう。この家から病院を眺める→家から飛び出して病院に向かうのシークエンスが凄まじくて、熱気の表現、大衆に埋もれる少年の無力差が伝える引きのショットなどが素晴らしかった。後半にも"火"は出てくるのだが、それはカルシファーの火と同じマジカルなもので、そこの描き分けはしっかり作品の現実と虚構(ジブリ)の線引きにも効いていたと思う。

その後、母を失った親子は疎開し、田舎の屋敷に移り住む。妹と再婚するという展開がマジ受け付けないのだが、それ置いておいて、雰囲気はちょっと『となりのトトロ』的で、その田舎で未知の存在である青鷺と出会い、そこから物語が始まる。この青鷺との下りにおける訳の分からなさについては②で後述するが、今回話したいのは、「全部見たことある」という感覚についてだ。

冒頭の火事のシークエンスが良い意味で"ジブリ"っぽくなかったことで非常に期待した反面、塔の中の世界に入ってからというものの全部知ってるやつやんが続く。新しく出てくる生物も全て既視感から逃れることは出来ていないし、星の表現や鳥の表現、海の描き方「全て見たことある」のだ。

 

それの是非については賛否あるだろう。宮崎駿作品を見に行ってるんだからそりゃそうだろと言われればそうなのだ。だが今回問題だと思ったのは「全部見たことある」の"全部"の部分で、あらゆる作品からセルフサンプリングが節操無さすぎて要素が羅列にしかなっていないことだ。ジブリの集大成だからってことではあるのだろうが、あの表面をなぞるだけではただの劣化版だ。
ジブリは毎回作品ごとにファンタジー表現に一貫性をもたらしていたはずだ。『もののけ姫』は自然崇拝と文明の対立を背景に、日本の土着信仰の神様を出す。『ポニョ』は生命の神秘を表現するような生物達や魔法を展開する。『ハウルの動く城』もジブリらしいヨーロッパ=魔法の構図の元に色々な要素を出していた。
そんな風にどの作品にもファンタジーにある種の一貫性あるテーマがあった。

そう考えると、本作は冒頭に示した太平洋戦争下という時代設定はあまり効いてないし、あの異世界の鳥云々がモチーフとして「何故鳥なのか」の部分が世界観と噛み合ってないのだ。(鳥かごの中の世界とかって言いたいのかな… 最後みんな飛び出してくるし…)鳥といっても二三種類しか出てこなくて本当に狭い世界なんだなと思わされるし。

本作は要素要素がビジュアル的に統一されるわけでもなく、散乱している。毎回毎回ジブリはむちゃくちゃでカオスの権化だけど、その根っこはどの作品にもあった気はするのだ。

 

それらの欠乏感、羅列感、つまり全く魅力的ではない世界にはちゃんとした"意図"があるわけなのだが、そこを踏まえて忖度してもやっぱ面白くなかった。確固たる世界観、ビジョンを見せて欲しかった。

余談。ばあちゃんが7人の小人っぽかったり、透明な棺凄く白雪姫だったんだけどなんでですか。
あとあのジャムを塗ったパンを観て無性に悲しくなった。『ラピュタ』であれだけ美味しそうだったパンが、今回では体積が増幅する全く美味しそうじゃないジャムパンになっていて、そこが一番観ていて痛々しかった。

②「支離滅裂な心理」

先程書いた意図については③で書くが、その前にもうひとつ書き殴っておきたい。
観ていてどんどん心が離れていくなと感じたのは、実はその異世界に入る前からである。
眞人は寡黙でありながら、はっきりとものをいう気質で、それ自体は面白いのだが、どうしてもその心中が分からない。彼を媒介してファンタジー世界を覗き込む序盤はそのせいで観客との認知にズレが生じてくるのだ。青鷺が明らかに普通じゃない行動(喋るや中からなにかが見えるとか)に対して、眞人は全く反応を示さない。ビビるとかじゃなくて、即座に敵対体勢を取る。それを"リアル"と言い張るならそれまでだが、その癖して、状況整理を説明台詞でやったりするのでワケわからない
他にも青鷺が一緒に来るか否か云々の所も形としてやってるだけで、別に本気で眞人を置いていくつもりが伝わってこない。
そんな感じで話に筋道や妥当性がなく、眞人という主人公が最後の最後まで聡いことはわかるが、どうでもいい人で終わってしまった。
スピルバーグ作品とか見てると思うけどリアクションって本当に大事なんだよ

 

 

③「ジブリの終焉」

今回なんの話をしていたのかと言うと、それはジブリの終焉についての話をしていたのだと思う。
ジブリは如何に宮崎駿に支えられてきたのか、またあの圧倒的な作家性の権化だった宮崎駿もまた老いには勝てず、ヴィジョンも説教もフェティッシュも朽ち果てしまったこと。

またそのジブリの後継者を見つけることが出来なかったこと。それらのジブリの現在進行形の終焉が反映されていて、あの欠乏した世界観も、世界をまた作り直してくれと委ねられ、断る結末も、全て今のジブリ(宮崎駿)がそうだからなのだ。

わざと欠乏感を出したというよりももう本当にインスピレーションがないからそういう話になってしまったというのが正しい気はする。
そう考えると説明はつくし、ある程度の"集大成"への納得感はある。しかし一作品としてジブリワースト級なのは否めない。
作品には監督のアルターエゴがしばしば出てくるものだが、眞人=宮崎駿でやってたはずなのに、最後の宮崎駿本人みたいなおじいちゃんが出てきて、継承者としてそれまで宮崎駿本人だった眞人に引き継ぐのだからよく分からない。

俺は最後に老人の妄言だとしても説教を聞きたかったのかもしれない。(ジム・ジャームッシュの『デット・ドント・ダイ』の呆れ果てた説教のほうがましかも)
耄碌してもう何もありませんと平伏する姿なんて見たくなかったのだ。

タイトルの「君たちはどう生きるか」はこう生きるべきという確固たる啓蒙の意思から来る「どう生きるか?」だと思ってたけど、もうビジョンもありません。押し付けるだけの体力もありません。なので教えて下さい「どう生きるんですか?」だったのが驚いた。

まるで走馬灯のような映画だった。がっがりだった。

 

余談だけど
ポスターの鳥と劇中の青鷺おじさんが同一人物なの受け入れられなくて、映画クライマックスで眞人が青鷺スーツを着てかっこよく夏子を救出すると思ってた。そんなシーンはなかった

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④二回目鑑賞での感想

一回目よりは楽しめた。話の筋が支離滅裂であることと終わり所を承知した上だと楽しめるということだと思う。

今回改めて見て感じたことは三つ。 1つ目は意外とと細部のディティールはしっかり描かれていた(特に前半)こと。ストーリーを追いかけようと必死だった1回目に比べて2回目の方が、より波の表現や風の表現、目をやることが出来た。加えて久石譲の曲力にやられたところもある。あの一番最後の部屋(温室や星空があるところハウルみたいなところ)に入った時の曲が本当に素晴らしい。重ねてみると多分よりそういった細部の素晴らしいところは発見できるだろうし、その点で言うと一定水準は超えた"ジブリ映画"にはなっていると思う。ただ後半作画が落ちていった感はやはり感じてしまう。

2つ目はインコが大嫌いということ。 これは1回目から漠然と感じていたことではあったが、改めてあのインコが嫌いすぎる。生理的にデザインが受け付けないのはもちろんのこと、あの画一化された色違いインコ共こそがあの世界のイマジネーションの欠乏感を表していると思うからだ。あのパレードの場面にもし多種類の鳥が登場していれば、あの世界は果てしなく広がる世界だと思わせることが出来たろうに、やらなかった、やれなかったところにこの映画のダメさはあると思う。(酷な言い方だが) インコ以外の場面は結構好きになれたなだが、インコの登場し始める青鷺OUTの場面から眞人気絶までが拷問級に嫌い。

 

3つ目はこれが一番重要なのだが、大叔父はあの世界をどうしたかったのかが分からないところ。 この映画はとにかく分からないことが多すぎて、ジブリ有識者たちはその抽象性をダシにして持ち前の知識で考察をあてこみ、眞人という人物の"ドラマ"がその抽象性によって蔑ろされていることに無関心なわけだが、それよりも気になったのは、あの世界についてだ。

この映画の最も肝心な場面はラストの大叔父からの提案「悪意のない石の積み木で新しく世界を作ってくれというところ。それを否定するところも含めて何となく泣けるシーンになっている。 だが、改めて考えるとよく分からない。まず大叔父は元々のあの世界を「悪意のない世界」として作りたかったのかということ。眞人に引き継ごうとするなら、悪意のない世界を作ろうとしたと考えるのは当然だろう。

 

しかしあの世界はそもそもとして生態系が破綻している。ペリカンはあの海に来てから、永遠にあのワラワラしか食べ物のない環境に拘束されていて"地獄"とまで表現している。あのシーンは創造主の悪意を感じさせるシーンだし、穏やかな世界を作ろうとしている人間の世界とは思えない。またインコも持ち込まれた外来種的な扱いで生態系をぶち壊していることが読み取れる。

そもそもとして、あの世界が悪意のある世界なのか、悪意のない世界なのかもよく分からない。 悪意は非常に人間的な概念なので、結構本能のままに行動してる鳥達からは分からない部分だ。 それらは大叔父が元から設定した世界なのか、老齢故に維持できなくなった世界なのか。

それとも勝手に生態系が壊れたのか。その辺が明確には分からないのだ。 その辺が分からないと「悪意のない世界」というのが大叔父にとってなんなのかが分からない

もとよりの悲願なのか、今の世界を生まれた時の悪意ない世界に戻す的なニュアンスがあるのか。 そこが抽象的なので、観客は現代の狂った現実とは違う世界という、ある種メタ的な見立てしか出来ない。それが意図なのだったら本当に元から"物語"を描く気なんてないんだなと落胆してしまう。 この三つ目がこの映画に対する嫌いな部分の大部分を占めている。

『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』劇場映画批評134回 全ての"運命"から抗う

(C)2023 CTMG. (C) & TM 2023 MARVEL. All Rights Reserved.

題名:『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』
製作国:アメリカ

監督:ホアキン・ドス・サントス ケンプ・パワーズ ジャスティン・K・トンプソン監督

脚本:フィル・ロード クリストファー・ミラー デビッド・キャラハム

音楽:ダニエル・ペンバートン


公開年:2023年

製作年:2023年

 

 

目次

 

あらすじ

マルチバースを自由に移動できるようになった世界。マイルスは久々に姿を現したグウェンに導かれ、あるユニバースを訪れる。そこにはスパイダーマン2099ことミゲル・オハラやピーター・B・パーカーら、さまざまなユニバースから選ばれたスパイダーマンたちが集結していた。愛する人と世界を同時に救うことができないというスパイダーマンの哀しき運命を突きつけられるマイルスだったが、それでも両方を守り抜くことを誓う。しかし運命を変えようとする彼の前に無数のスパイダーマンが立ちはだかり、スパイダーマン同士の戦いが幕を開ける。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

運命に抗う物語

本当に素晴らしい。観たいものを超えてきた。
アフターNWHの今、「運命に抗う物語」を本気で描こうとする姿勢に感動してしまった。
この場合における"運命"は広義的だ。
大人が私はお前よりも人生や社会を知っている、だからあれこれしなさいという説教。
物語におけるクリシェ、定番の展開、つまりはスパイダーマンとは"こう"であるという固定概念。
社会性によって蜃気楼のように立ち上がる倫理観や道徳。


多岐に渡るそれらは、全てが人に思考停止を迫るのだ。本作においてもグウェンの父親は、耐えきれない状況を定型的な仕草(逮捕時のマニュアル的な口上)によって思考を放棄する。そんな彼が警察を辞め、娘に向き合おうとする後半の展開にも、そういった思考停止を誘発させるものから抗う物語なのだと読み取れる。
一応言っておきたいが、この作品における"運命"はNWHのスパイダーマン故の宿命とは本質的に違う。なぜなら、あの作品におけるそれは、起こってしまった後のセルフケアの文脈で語られるからだ。
それに対し、本作ではまだ生きている愛する家族と世界を天秤にかけて「諦めろ」と言うのだ。
そんな"運命"抗うに決まってんだろ。

 

スパイダーマンの持つ"運命"の説得力を利用し、そしてそこから踏み越えて過剰に描く

本作が巧妙だと思うのは、この運命の扱い方にある。一つはその嫌なまでの説得力だ。
多くの観客が実写や漫画、アニメを通して『スパイダーマン』というキャラクターを定義する幾つも要素を理解している。ファンであればあるほど、それは仕方がないこと(スパイダーマンなら当然受け入れるべきだし、それがないならスパイダーマンじゃないとまで言うだろう)。
それを本作はカノンイベントと名付け、それを履行しないと世界は滅ぶというのだ。自分も正直最初は納得がいってしまった。特にNWHという事例や前作が"スパイダーマン"というアイデンティティについて通して、1つのコミュニティで成長していく話だったから。

しかしそれに対して本作は過剰なまでに論理の飛躍をする。まずスパイダーマン中心主義的な世界観の構築。何故スパイダーマンのカノンイベントが不成立だと世界が滅ぶのか、あまりに突拍子が無さすぎるという部分がその前提の不信感を募らせてくれるのだ。
至ってシンプルに考えて、その"カノンイベント"という考え方はおかしいし、それはある意味スパイダーマンというアイデンティティに囚われた人達が「自分」に固執した結果だと取れる。そこには全ての人に"物語"があるのだという視点が欠けている。

それが次作のキーになるのだろう。他にもキーとなるような描写は沢山ある。グウェンの父が"署長"じゃなくなったことの示唆なんかがそうだ。というかそもそもグウェンという存在がカノンイベントの脆弱性を象徴しているような気がしていて、グウェンって多分ほとんどのスパイダーマンにとって「死」のカノンイベントなはずで、それが彼女にとってはピーターだったのか、別の人で成り立っているわけで。以外とそこに拘束力がないように思う。

 


そう考えるとシミュレーションをして、カノンイベントを予期、またカノンイベントの説明をしていたライラがクソ怪しい。あいつだけスパイダーマンじゃないのにあの場にいるし、ゴーホームマシンで邪魔をする仕草をしていたし…。

ともあれ、そういったスパイダーマンの持つ"運命"の説得力を利用し、そしてそこから踏み越えて過剰に描くことで、その論理の脆弱性を暴き、ぶち壊してやろうという話に感服したのだ

 

またその描き方も最高で、1vs多数の構図がやっぱりスパイダーマンは似合う。全ての"先輩スパイダーマン"を一網打尽にして、クソ喰らえと逃げ切る姿が本当に素晴らしかった。そんな彼に最初から期待して、手助けするANARCHYなスパイダーパンク、嫌いなやつ存在するのか?

そして彼の選択を無条件に肯定する母の言葉。愛されていることを忘れないで、故郷はどこにあるのかを忘れないでと語りかける言葉がこのマルチバースを扱った作品で、確かな居場所を提示していた。

 

グウェンについての描写も素晴らしかった。デートシーンも良かったし、アニメーションの面白さも数多あるタッチの中でも1番だった。

まだまだ語りたいが、これぐらいにしておく。
とにかく想像以上の出来だった。

 

『ウーマン・トーキング 私たちの選択』劇場映画批評133回 会議は未来のために行われる

(C)2022 Orion Releasing LLC. All rights reserved.

 

題名:『ウーマン・トーキング 私たちの選択』
製作国:アメリカ

監督:サラ・ポーリー監督

脚本:サラ・ポーリー

音楽:ヒドゥル・グドナドッティル

撮影:リュック・モンテペリエ

美術:ピーター・コスコ
公開年:2023年

製作年:2022年

 

 

目次

 

あらすじ

2010年、自給自足で生活するキリスト教一派のとある村で、女たちがたびたびレイプされる。男たちには、それは「悪魔の仕業」「作り話」だと言われ、レイプを否定されてきた。やがて女たちは、それが悪魔の仕業や作り話などではなく、実際に犯罪だったということを知る。男たちが街へと出かけて不在にしている2日間、女たちは自らの未来を懸けた話し合いを行う。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

凄まじい作品だった。
決して劇的とはいえないが、確かに切迫した危機的状況として提示される有限の状況設定で、それぞれのバックボーンや尺度、価値観を尊重しながら重ねられる対話は、何よりも事態を改善しようとする人々の選択を賛歌する。その選択に至るまでの道程の描き方、特に情報開示のタイミングが見事なのだ。

 

 

寓話性を帯びた物語

舞台はキリスト教系メノナイトの閑村。牧歌的な風景に、質素な服装や家が映され、いかにも19世紀の欧米様式を思わせる映像だ。(個人的にはテレンス・マリックの『天国の日々』を想起させた。)
そこにはナレーションという形で未来の"少女"による語りが入る。これは「物語」であるという語りは、この映画が非常に寓話的な作品であることを印象づけるが、この冒頭において、本作は寓話的というよりも歴史映画的な佇まいに見せる。

上記した映像感は中世ヨーロッパ、あるいは19世紀後半のアメリカ南部といった時代と場所を連想させる。また本作の中心にある性的虐待事件の背景にあるアンドロセントリズムな考え方や宗教的な(そして盲目的な)価値観が、現代とは違うもっと閉鎖的な時代を想起させ、これは「遠い昔の物語」だと提示しているように思えるのだ。(決して現代には起こらない事件だと思っているわけではないが、)

 

だが作品と現実との間に横たわる「遠い」距離は、作品の情報制御によって意図的に仕向けられている。それがはっきりとした形で分かるのは、ザ・モンキーズの「Daydream beliver」を流しながら登場するトラックのシーンだろう。

馬車が一般的な移動手段なのかと思っているといきなり近代的な「車」が登場するのだ、そこのショッキングさはかなりのもの。加えて、これみよがしに"2010年"であることが分かり、これは"現代劇"であるとはっきり提示されるのだ。
正直この時代設定がはっきりすることによって作品の寓話性が引き出されるというのが不思議だ。
彼女たちはキリスト教の中でも厳格な教義に従うメノナイトという人々だ。信仰に基づき、旧式の生活様式を実践する。そうすることで、信仰に生きる人々なのだ。
その前提により中世風でありながら現代劇というニュアンスが生まれ、過去現在に至っても通底する寓話性を帯させることに成功していた。

 

「情報開示のタイミング」

そういった寓話性を帯びた物語の中で、行われるのはただひたすらに会話である。今年は「会話」を題材にした作品は数多く生まれていて『対峙』であったりがそれにあたる。とにかく会話、話し合いが持たれる。互いの背景を共有し、分かり合えないところと分かり合得るところを模索する行い。その中で特に本作が素晴らしいと思ったのは、作劇としての「情報開示のタイミング」、そしてその「会議は何故行われているのか」の描写だ。上記した時代設定を遅れて提示するのも見事だが、自分が優れているなと思ったのは、会議の出席者達のバックボーンの提示タイミングだ。


それぞれに公表しがたい被害と守りたいものが存在していて、子供であったり、"家族"という形であったりする。そういった背景が会話の中で次第に映し出されていくのだ。この映画は対立構造や主張の仕方によってどうしてもルーニー・マーラ演じるオーナの主張に肩入れする形になってしまう。特にジェシー・バックリーのポジションは現状維持を掲げ、高圧的な振る舞いをするため、ヒールとして見られがちである。
しかし遂に脱出しようとする朝、彼女の事情である「夫が加害者であり、彼女もまた家族を守りたいという事情」があることを提示するのだ。それぞれの意見には背景があり、それなりの理由がある。このタイミングで提示することで意見や主張する個人をフラットに描くことが出来ているのだ。善し悪しだけでは語れない事情があり、合理的には処理できない感情的な部分について彼女達は話し合っている、それこそがサラー・ポーリーのポリシーなのだと感じさせてくれるのだ。

 

「会議は何故行われているのか」

会議は何故行われるのか。上述したような背景や主張に加えて"目的"は非常に大事なものとなる。
目的として彼女たちの安全と安心に加えて本作は「子供」という要素が大事であることをしっかり提示する。この物語は信仰の話であり、同時に「教育」の話なのだ。
その目的に「子供」を設定する方法として、子供たちがテレンス・マリックのような映像感で畑の中で遊んでいる様子を描いているのがいい。守らなければいけないものとして、無垢に遊ぶ"未来"を台詞ではなく、その映像で語るのだ。自分が一番涙腺が来たのはその映像だった。


オーガストについて

個人的に一番引っかかったのは、オーガストの扱いである。寓話性のある物語として、彼に重ねられる属性は複雑で多角的で、非常に難しいニュアンスになる。自分としては彼は男らしさの有害性を自覚し、どうにか抜け出したい男性であり、しかし「男である」が故に、簡単には女性と連帯できない(男である引け目を感じている)人の代表として置かれているイメージだ。


ただそう考えると、彼が一人取り残されるという終わり方は苦しい。


自分に置き換えて考えると、ホモソーシャルな世界に取り残されたくないのに、全ての責任を負わされて残されるのはあまりに辛い。「教育者」だからとって、子供の教育を任されるのだが、果たして「女性の教育者」だったらどうだろうか。そう考えると出ていくか否かのラインは男女の間に引かれるのだろう。彼には選択肢がなかったように思えてならないのだ。そもそも彼があの村で生きていられるとは思えない。殺されてもおかしくないとさえ思う。

男は男同士で解決しろということなのかもしれないが、そういった環境に居たくないと思っても、逃げ出したいと思ってはいけないのだろうか…

オーガストと思うと苦しくなるのだ。その苦しみがこの作品の強度を証明していると思いつつ。

『ザ・フラッシュ』 劇場映画批評132回 なかったことにする姿勢

(C)2023 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved (C) & TM DC

題名:『ザ・フラッシュ』
製作国:アメリカ

監督:アンディ・ムスキエティ監督

脚本:クリスティーナ・ホドソン

音楽:ベンジャミン・ウォルフィッシュ

撮影:ヘンリー・ブラハム

美術:ポール・デナム・オースタベリー
公開年:2023年

製作年:2023年

 

 

目次

 

あらすじ


地上最速のヒーロー、フラッシュことバリー・アレンは、そのスピードで時間をも超越し、幼いころに亡くした母と無実の罪を着せられた父を救おうと、過去にさかのぼって歴史を改変してしまう。そして、バリーと母と父が家族3人で幸せに暮らす世界にたどり着くが、その世界にはスーパーマンやワンダーウーマン、アクアマンは存在せず、バットマンは全くの別人になっていた。さらに、かつてスーパーマンが倒したはずのゾッド将軍が大軍を率いて襲来し、地球植民地化を始めたことから、フラッシュは別人のバットマンや女性ヒーローのスーパーガールとともに世界を元に戻し、人々を救おうとするが……。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

 

 

正直残念な出来だった。ドラマ版でフラッシュポイントの話の大筋を理解していて、"時の流れを身勝手に変えてはいけない(色々酷いことになるから)"というフィクション内で深く共有される価値観に則り、母の死を受け入れるという終わりを知っている状態での鑑賞だったのだが、そのせいか全てが予想の範疇から抜け出しそうで結局抜け出さずに終わる作品だった。

多分それは話の筋が分かってたからだけが原因ではなく、言ってしまえば演出云々が全て古いからなのだ。

 

ベンアフ・バットマン

大きく分けて、タイムトラベルして別世界線に行く前後で分けて話していく。
前半に関しては、時折素晴らしいシーンがあり、本作の白眉になっていた。

まずはやはり、ベンアフバットマンの活躍が観れたこと。

ベンアフバットマンに特別な思い入れはないものの、快活なバイクアクションやザック演出影響下から抜け出したベンアフバットマンの憑き物が落ちたような演技は、続きを見てみたい気持ちにさせられた。特に素晴らしいのが「過去の傷があるからこそ今の自分がいる。過去に使命はない。過去に君(バリー)が正さなきゃいけないものはない」という台詞。大人として、先輩のヒーローとして、親を失った同類として、投げかけるその言葉はベンアフバットマンのバックボーンを感じさせながら、優しく若者を導こうとする意志を感じさせる台詞であり、そして本作の行き着く結末を予感させる素晴らしい台詞で涙が出そうになった。

また細かい描写だが、アルフレッドがフラッシュに出動要請をするシーンで、他のヒーローの行動が示唆される描写、特にスーパーマンがテレビに映るのがいい。MCU初期ではをやっていたのだけど、最近そういう裏では別の事件を解決してましたという描写が欠けてるので、久しぶりに観れた気がして嬉しかった。特にDCはどのヒーローも個でも十分な戦闘能力があるところに一つ差別化できるポイントがあるので、個で活躍している展開はDCの方が映える。

 

観たいフラッシュじゃない

前半のその辺は良かったのだが、一方でフラッシュ本人の描写には不満が残る。仕方ないにせよバリーという人間が父の事件を解決するために勉強して鑑識に入った、という部分の描写不足が否めないこと。

またフラッシュの赤ちゃん救出アクションがとにかくたるいこと。『XMEN F&P』や『XMENアポカリプス』でクイックシルバーが見せたアクションシーンと比べても全くセンスを感じないし、JLスナイダーカットと比べても一目瞭然。最近の流行りとして、高速移動を「スローモーション」にすることで相対的に描写することが流行っているが、正直それが基本のアクションになるとゆっくり戦っているヒーローの画ばかりを見ることになるのでキツイ。(加えて走り方もダサい 足が遅いやつの手の振り方が本当にダサい )
スーツもJLの機械的なのが好みだったし、もっとコミュニケーションエラー起こす感じのバリーが見たかったというのが本音。とにかくJLを通して「単独作が見たい!」とさせられたフラッシュではないと感じてしまったのだ。

 

そんな彼が母の死について思いを馳せ始め、遂にはタイムジャンプを覚える。そこからが後半。(尺的には全然後半の方が長いのだが、個人的な都合でここで前後半を分けさせて欲しい)

ハッキリいってこの後半、特にゾット軍との平地での対決までの流れがとにかく退屈だった。時間遡行の描き方がかなり変わっていて興味を引かれたし、それがクライマックスの世界線の追衝突の展開と相性がいいのも分かった。(上から観るとダーツボードの様である円形で、その中心でダーツで串刺しにされたぬいぐるみはリバースフラッシュを予見するものだったというのも悪くなかった)

 


ただ、スパゲッティを使った説明とイメージ的に合わないし、フラッシュという主体に寄りかかり過ぎな描写で、とにかく奥行がないので面白くないのだ。

またキートンバットマンも前シリーズとの繋がりがあってもなくても変わらない存在感で、これなら老け込んだベンアフでもベイルでも成立するやんという感じがした。

このキャラクターが同じ姿(俳優)ながらも、全く前作との繋がりを感じさせない描き方が、今作への最大の不満点かもしれない。
とにかく記号的にキャラクターを登場させて、「驚いただろ?」とサプライズを演出する。仮面ライダーの春映画と比べれば俳優本人(CGも含めて)が出ているだけマシだが、それでも顔や名前は同じなのに、全くその"歴史"を感じさせてくれないのは悲しい。NWHって本当に凄かったんだなと改めて思う。

 

とにかく古い

バリーが能力を失ってから取り戻す流れも結構ずさんで酷い。

後半はかなりアクションも多めになるのだが、スーパーガールが出たり、ゾットが出たりしてくると『マン・オブ・スティール』と比較してしまうのだが、やはり目を見張るようなものが本当にない。全てがなんだか手垢のついたようなアクションで、とにかく"古い"。闘い方を教えながらのCG感強い平地でのアクションも見てて辛い場面がかなりあった。

後半で「おっ!?」となったのは、CG感の強い平地でスーパーガールとバットマンが死んだところ。つまりここからは「母親の命か、それともDC二台巨頭のスーパーガール(マン)とバットマンの命か」という究極の二択を迫られるのかと思ったのだ。

ただその展開は結局大した結末を導かない。そもそもスーパーガールが何故か地球に未適応の覚醒前ゾットに一生勝てないという前提に納得がいかない。

 

そして結局"知ってるラスト"に落ち着いてしまったのが残念だった。自分としては 不可視の交差を如何に攻略するって話の方が面白いだろと思うのだ。
自分は『シュタインズ・ゲート』を親だと思って育った世代なので、その不可避の時間軸のルールに抗ってなんぼだと思うんですよ。
特に一人のフラッシュじゃ無理だった、だが、二人なら…と、2人のフラッシュで事態を解決する展開を期待してもいいじゃないか。それこそがマルチバースの醍醐味だというのに。

そのクライマックスで、他のマルチバースとしてクリストファー・リーブ版スーパーマンや企画段階で中止になったニコラス・ケイジスーパーマンなんか出すのも、結局上記したようにキャラクターが記号的に配置されたに過ぎないので、サプライズににやけながらも複雑な気分にさせられた。

あとジョージ・クルーニバットマンを出すのも許せない。自分が一番見たバットマン映画はMrフリーズの逆襲なので、それ自体は嬉しいのだが、前半のベンアフのセリフ(忠告)に対するリアクションが最後にあってこそ綺麗にまとまると思っていたので、そこで別バットマンにするのは理解できない。


この映画はやっぱり、そういう軽薄なサプライズで成り立っているんだなと思ってしまった。軽蔑する。

結局、バリーは全てをなかったことにする。ヒーロー映画らしいマッチポンプ展開だ。しかしこの映画をスーパーガールやキートンバットマンの物語として見た時、その終わり方はあまりに酷くないか?

 

その「なかったことにする姿勢」は、現DCの体制そのものだと思うのだ。
スーパーガールのオリジンがもっとちゃんと見たかったんだよ俺は。

鑑賞中はそこまで不満は無かったのだが、振り返ってみるとろくでもない作品だなと思った。